ほとんどのことはどうでもいいことである。
昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を 「好き・嫌い」 で分けなくなったというものがある。もう少し正確に言うと、色んな事に 「嫌い」 を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて 「まずい」 とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで 「おもしろくない」 とも言わなくなってきた。 もうなんか、どうでもいいじゃないかという気持ちである。 僕がなにかについて 「嫌い」 とか 「面白くない」 とか 「まずい」 などと言って、誰の得になるだろう、誰か幸せになるのかなと思い始めたのである。それこそ昔は尖っていて 「アンチであることのクール」 みたいなところにしがみつき、 「お前達は全然わかってない、あんなものはクソだ」 などと喚いていた時期もあったが、最近はそういう体力がもうない。というか、そういうことに頭を使うと、疲労がえげつないのである。 元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、 「オレの日記、面白いでっしゃろ」 と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、 「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」 などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。 僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを 「嫌い」 と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を必死になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもう、すんごいしんどい。そして相手が 「わかったわかった、私も嫌うからもう許して」 と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに 「幸せ」 は存在しない。 一方、 「好き」 を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の 「好き」 が深まるのだからある意味で...