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国語・ザ・マスターベーション。

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二の腕をさわってもらいたい。 あなたの二の腕である。人差し指と中指と親指で、二の腕をそっとやさしくつまんでほしい。そう、そう、もっと・・・もっとだ。力を込めるのではなく、弾くように、奏でるように、リズミカルにあなたの二の腕をさわってもらいたい。 こっちを見て。ジッと僕の目を見て。目を逸らしたらダメ。瞬きもダメだ。僕を見つめながら、自分の二の腕をさわってもらいたい。 さて。 今あなたがさわっているであろう 「二の腕」 だが、本当は 「二の腕」 という名前じゃないことはご存知だろうか? もちろん 「二の腕」 という名前はあるのだけど、それは 「肘から手首までの部位」 を指すのである。きっとあなたは今、肘から上の肩から下の部分をつまんだまま、きょとんとしていると思うが、その 「肘から肩までの部位」 の名前、実は、本当は 「一の腕」 なのである。 ドドーン!! 昔から使われている言葉が、いつの間にか違う意味で使われてしまっていることを 「誤用」 と呼ぶ。インターネットで 『誤用』 をググッてやると 「誤用にご用心」 というサイトが出現して僕は大きく仰け反り 「なんたるセンス」 と舌を巻いた。 さて、日本語で最も有名な 「誤用」 はなんだろうか。やはり 「確信犯」 は有名である。 「確信犯」 という言葉は最近、 『自分がやっていることを悪いことだとわかった上でそれでも罪を犯す人』 のこととして使われている。わざと悪いことをした人に 「おまえはん、確信犯やないけー!」 と言ってケツを蹴るというシーンは街を歩いていれば当たり前のように見られる。 「ベランダに干してあるパンティを不法侵入した上で窃盗するというのは、あかん。やったらあかんとわかっているけれど、でも欲しいっ! 欲しいから、オレはやる!」 という人が今、 「確信犯」 と呼ばれている。 けれど本来の意味は違う。むしろ真逆なのである。 本来 「確信犯」 というのは 『自分がやっていることは正しいことだと信じて法を犯す人』 のことを言うのである。 「嗚呼、ベランダにパンティが干してある。あのパンティ、とてもいい。まるでオレのために誂えられたかのようなデザインじゃないか。特に股間部分にバタフライの刺繍がしてあるのがとてもいい。あれはオレのためのパンティだ。オレのパンティだ。オレのためのバタフラ...

面白い読み物について考える。

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ブログ然り日記然り、面白い読み物に出会えると嬉しい。わぁ面白いなぁと言えるのは至福の瞬間だと思う。自分でも物を書くから人から面白いと思ってもらいたいし、面白いと言ってもらいたいといつも思っているのだけれど、最近なかなか自分で面白いのが書けたなぁとまで言えるものができなくて困っていたため、亀を火で炙って甲羅に走るひび割れの具合で吉凶判別をしようと河原に急いだのだけど、亀はいないし増水しているし、戦争はなくならないしで諦めて南無三、久しぶりに日記を書いてみたら、まぁ人からの評価はどうであれ、自分としては面白いと思う物が書けたので、この機会に僕はどういう基準で文章の善し悪しを判断しているのか、今日は暇な仕事場にいるわけだしちったぁ考えてみようと思った。 読み物に必要不可欠な三大要素はコンテンツ、センテンス、ボキャブラリィだと思う。どんな内容にするか、どういう文体で書くか、どんな言葉を使うか、この3つが文章には大切だと少なくとも僕は考えているらしい。 例えばお涙頂戴の日記を書こうと思ったら、コンテンツを決める必要がある。不治の病とか、叶わぬ恋といった悲劇的内容にするのか、もしくは友情、恋愛、夫婦愛、親子愛といったわりと狙いやすいジャンルで行くのか。まずはコンテンツを確定してエンターキーを弾いてやる必要がある。 次に文体である。 です・ます調子で温和にいくか、である・だ調子でロックにシェケナベイベーするか、方言を駆使するか、ヴォイニッヂ手稿よろしく新たな言語を作るのかを考える必要があるし、人称は一人称なのか三人称なのか、一人称にするなら 「ぼく」 なのか 「僕」 なのか 「ボク」 なのか、はたまた 「オレ・俺・おれ」 、 「わたし・私」 もしくは 「あたい」 にして場末感を醸し出してもいいし 「拙者」 とか 「小生」 として時代錯誤感を入れてもいいし、 「やつがれ」 として卑屈にへりくだってもいいが、とにかく人称を決める必要がある。 接続助詞は 「~から」 で統一するのか 「~ので」 で統一するのか、はたまた混用したっていいじゃないか、ニンゲンだものと嘯くのか。主語述語・修飾被修飾語の並び順なんかも決めたいところである。たまに倒置法を使ってオシャレにしてみたり、体言止めによりワンピースで言うところの 「ドンッ!!!!」 を演出してみたり。句読点を意識的にいれ...

君が代問題について、無理矢理考える。

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前々から、ちらほら聞いてはいたけれど、それにしてはよくわからんのが、世間には君が代を歌うことを嫌う教師とか、君が代を歌うときに立たない教師がいて、それが問題になっているという問題、通称 「Gimme God YO!! 問題」 ではなく 「君が代問題」 である。 僕ももう三十路をええかげん過ぎたわけで、世間を賑わせている問題については、一定程度の知識を持っていて当然と言われる年齢である。しかしながら、この 「君が代問題」 についてはホントになんにも知らなかった。単純に現象として 「君が代を歌いたがらない人間がいる」 ということしか知らなかった。しかし、なにかの事件や事象が起こって、それを説明しなければならないとき、必要な情報は 「なぜ」 の情報である。どういう経緯があって、どういう理由があって、その事件が発生したのかについて説明できなければ、そのことについて 『知っている』 とは言えない。 ということで、手っ取り早く 『君が代問題』 についてWikipediaで調べてみたのだけれど、普段であればWikipediaで調べればどんな問題も即座に明らかになり 「あーよかったなー、あなーたがーいてー」 と花☆花のヒットソングを口ずさみながらまた元の、うだつの上がらない生活に戻れるはずだったのに、今回に関してはWikipediaで調べてみても、よくわからないのである。なんというか、溜飲が下がらないのである。正直、君が代問題について、僕はあまり興味がない。なんというか、おもしろい話ではないので、Wikipediaを斜め読みして終わり、でよかったのに、読みながらも 「えーどういうことー」 と思ってしまったのである。 例えば、君が代を歌いたくない人間の言い分はこうである。 「君が代を歌うと、戦争時代を彷彿とさせる」 お前何歳やねん。お前きっと戦争を知らない子供たちだったはずやろ、戦争時代に生きてないやろ、そんなやつが、1分弱の歌聴いただけで、なんで戦争思い出すねん、どないしてもたんや。 続いてこうである。 「君が代の歌詞は天皇君主制の賞賛であり、それを肯定することはできない」 お前、どんだけ歌詞読みこんでるねん。どこにそんなこと書いてあるねん。 と言うと 「歌詞の至る所に、天皇賞賛の 『比喩』 が隠されている」 と反論してくるが、もう...

言葉は人を救わない。

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賢人達は皆、 「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」 と仰る。まさに慧眼、すげぇええこと言うなぁと思う。 僕には他人の発する言葉に対して必要以上に懐疑的であったり、深読みをしすぎる傾向があるため、 「言葉」 というものに対して平均以上に敏感であると自負している。 「自負」 の使い方が間違ってるような気がするけどもね。 さて、先に書いたとおり、 「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」 、蓋し正論である。 たとえば 「あなたの言葉に勇気づけられた」 と言われた場合、それは間違っている。言葉にはそんな力はない。もしもあなたが僕の言葉で勇気づけられたのだとしたら、それは僕の言葉に 「力」 があったのではなく、あなたに僕の言葉を 「理解」 し、そしてそれを 「消化」 し、その上で自分を奮い立たせるだけの 「力」 があったということでしかないのだと思う。 というのも、もし万が一、 『言葉そのもの』 に力があるのだとしたら、 「薬」 のような効能があるのだとしたら、世界中のどんな人でも救えるような 「魔法の言葉」 があるはずだし、誰がその言葉を口にしてもたちまちに相手を元気にさせることができるはずではないか? しかし、実際は違う。 片想いの相手にフラれた程度の相手に 「世の中そう言うこともあるよ」 と言って、相手が 「そうだよな」 と元気になったとする。しかし、末期癌を宣告された人に 「世の中そう言うこともあるよ」 と言って、相手は 「そうだよな」 となるだろうか? ならないだろう。前者は、まだ心に余裕があり、相手の言葉に 「聞く耳」 を持ち、それを 「消化する力」 があり、自分を奮い立たせる 「力」 が残っているだろうが、後者にはまず相手の言葉に 「聞く耳」 がないだろうし、あったとしても、 「それはそうだけど…」 と消化できないだろうし、そもそも 「お前にオレの何がわかるんじゃ」 となるだろう。 言葉とは全て、 「受け取る側」 のモチベーションに依拠しているのである。 それなのに、世の中には 「発する側にイニシアティブがある」 と信じて疑わない人がいて、そういう人たちがいるせいで、たくさんの 「嫌な言葉」 というのが生まれている気がする。 例えば、 「オレは、お前のためを思っ...

東京が、攻めてくる。

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通っている職業訓練校に、夜場さんという方がいる。55歳で、以前は繊維系商社にお勤めで、上海に9年住んでいらっしゃったのだけど、僕は夜場さんと喫煙所で和談するのをとても楽しみにしている。 この方の話はとにかくおもしろいのである。ものすごくおもしろい。こんな55歳になりたいと心から思うし、会社勤めの時、この人が上司だったら、僕のサラリーマン生活も変わっていたかもしれないとさえ思う。まぁ、上司のせいにするのはよくないが。 この方には、持論がある。持論はあるのだけれど、年齢が半分しかない僕の意見にもきちんと耳を傾けてくれる。たぶん、知識欲が豊富な方なのだろう。若輩の意見に対しても 「あぁ、そうか、そういう考え方があったかぁ」 と共感してくれるし、意見が食い違っても、年齢にかこつけて頭ごなしに否定するようなことは絶対にしない。 今日、そんな夜場さんと、神戸についての話をした。僕も夜場さんも神戸に住み、基本的に神戸を愛している。僕は神戸が好きだ。独特の雰囲気があって、地方都市だけれど、全国区の知名度がある。 「兵庫県」 という県名よりも 「神戸」 という市名が先に出てくるのは、横浜か神戸ぐらいのものじゃないかという手前味噌な認識がある。 ということで、僕はそのとき、夜場さんの前で神戸を絶賛していた。神戸愛について熱弁していた。夜場さんも同じく、神戸を愛する人であるので僕の話をうなずきながら聞いてくださっていた。 しかし、その雰囲気が少し変わった瞬間があった。それは僕が 「神戸は、東京へのあこがれみたいなものが薄くて、地方都市としても自立しているのが誇らしい」 という話をしたときである。僕は神戸に対し、そういう認識を持っていた。 夜場さんは 「でもね」 と言って、このような話を切り出した。 かつて、神戸に限らず、地方都市は、どこでもそれなりに自立していて、その土地その土地ならではの特色があった。しかしそれがある時期を境に、変わっていった、地方都市が東京にお伺いを立てるようになり、地方都市の 「独自性」 が失われていったと思うと夜場さんは言うのである。 そして夜場さんはこう言った。 「ある時期」 というのはね、 『新幹線が通ってから』 なんだよ、と。 新幹線が開通して以来、地方都市の独自性が、すべて東京に奪われていったと夜場さんは言う。その...

語り継ぐべき人やもの。

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阪神大震災から16年が経った。 当時、僕は中学2年生で、友人の言葉にハッとしたのだけど、震災前の人生より、震災後の人生の方が長くなった。もちろん、日が経つにつれ、月が経つにつれ、当時の記憶は薄らいでいるし、そもそも僕が暮らしていた街は、神戸市ではあったけれど、被害は少なく、けが人もほとんどでなかった。 だから、震災当時の僕も、学校が休みになったことが嬉しかったし、夜になってようやくつながるようになったテレビが倒れた阪神高速道路を映し出していても、 「映画みたいやなぁ」 という感想しか持たなかった。 高校に上がり、震災で友人を亡くしたとか、家族を亡くしたという友人が増えたことで、 「怖かったんだなぁ」 と少し身近に感じられるようになった程度である。 とても中途半端な立ち位置にいると思う。毎年1月17日の午前5時46分に起きて、黙祷を捧げるほど震災に心理的に近いわけではないけれど、神戸に住んでいたものとして、あの朝の突然の揺れは体が覚えているから、被災者ではない人よりは震災に近い。 この時期になると、 「リメンバー・阪神大震災」 というドキュメントが深夜にずっと流れている。テレビには決まって仏壇に手を合わせる老婆や、息子の遺影に手を合わせる両親が映し出されている。いかに震災が悲惨だったかを、そして残された者の悲しみは今も癒えないということを繰り返し流している。それを見るにつけ、なんだか不思議な気持ちになる。不思議な気持ち、結局は違和感なのだけど。 結局、悲しむ人は、誰に何を言われようと、なにも言われなくても、悲しむし、悼むし、震災を忘れないと思うのである。マスコミが家に来ようが来まいが。 一方で、忘れたい人だっていると思う。震災のことを思い出したくない人もいるだろう。その人が震災を忘れようとしたとして、それを誰が責められるだろうか。 要するに、各々が、各々のやり方で震災を受け止めている。ある人は大切に毎年毎年思い出そうとするだろうし、ある人はきちんと消化しようとしている。外から入ってきた人間がそれをコントロールするべき事ではない。 もちろん、 『防災』 という意味では、語り継がれなければならないことだろう。でも、それ以外に、義務的に語り継ぐ必要はあるのだろうかと思う。 今年、ついに小学校1年生から中学校3年生まで、全員が震災を知らない世...

伊達直人の不気味。

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最近、往年の覆面プロレスヒーロー、タイガーマスクの正体である伊達直人? 緒方直人? を自称して、施設にランドセルを贈る者が現れ、それに追随する形で矢吹丈やらなんやらが相次いで施設にランドセルを送りつけていて、日本列島津々浦々 「こらええこっちゃムード」 になっているのが僕にはどうにも気持ち悪い。なんというか、据わりが悪い。その、据わりの悪さについて考えてみたところ、いくつかの 「なぜ?」 が据わりの悪さの要因になっていることがわかったので、ひとつずつ潰していこうと思う。 幸いなことに、現在の僕には、そういう無為なことに費やすだけの時間は、腐るほどに、ある。 さて、僕が 「なぜ?」 と思うのは下記の通りである。 1)なぜ、正体を隠すのか? 2)なぜ、ランドセルなのか? 3)なぜ、模倣者が続出しているのか? まずひとつめの 「なぜ正体を隠すのか?」 についてだけれど、これにはふたつの仮説が立っている。ひとつは、日本古来の 「秘匿する美」 に基づいた、無意識的な行動だという説である。 「こういう世のため人のため的なことは、コッソリやるべきだし、実名を公表するなんて不粋の極み。調子に乗ってると思われて石礫ぶつけられてもかなわんし」 という気持ちから正体を隠しているのではないかという説である。あるいは 「こういうことをやるときは、正体を隠すものだ」 という思い込みにすらなっているのかもしれない。 もうひとつの仮説は先の説とは相反して、 「目立ちたい」 というものである。 「おいおい、なに言ってんだ、このチンカス野郎、目立ちたい奴が正体を隠すかよ」 とお思いの方もあるかも知れないが、どうだろう、本当にそうお思いか? 例えば、茨城県の佐藤和夫さんが近所の施設にランドセルを寄付したとする。そんなものがニュースになるだろうか? せいぜい地元新聞の 「人と街〜つながる絆〜」 の紙面を埋めるぐらいのものだろう。少なくともテリー伊藤や小倉さんの口上に登るようなことにはならなかっただろう。今回の事件は、3つの要素で構成されている。これは僕の 「なぜ?」 と合致するけれど、 『正体不明の人間』 が施設に 『ランドセル』 を贈り、 『模倣する者』 が続出している 、という事件なのである。 そして、その中でも 「正体不明の人間が行った」 からニュースになったのである。...

言葉は人を救わない。

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賢人達は皆、 「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」 と仰る。まさに慧眼、すげぇええこと言うなぁと思う。 僕には持病もあって、他人の発する言葉に対して必要以上に懐疑的であったり、深読みをしすぎる傾向があるため、 「言葉」 というものに対して敏感であると自負している。 「自負」 の使い方が間違ってるような気がするけどもね。 さて、先に書いたとおり、 「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」 、蓋し正論である。たとえば 「あなたの言葉に勇気づけられた」 と言われた場合、それは間違っている。言葉にはそんな力はない。もしもあなたが僕の言葉で勇気づけられたのだとしたら、それは僕の言葉に 「力」 があったのではなく、あなたに僕の言葉を 「理解」 し、そしてそれを 「消化」 し、その上で自分を奮い立たせるだけの 「力」 があったということでしかないのだと思う。 というのも、もし万が一、言葉そのものに力があるのだとしたら、 「薬」 のような効能があるのだとしたら、どんな人でも救えるような 「言葉」 があるはずだし、誰が口にしてもたちまちに相手を元気にさせることができるはずではないか? しかし、実際は違う。 片想いの相手にフラれた程度の相手に 「世の中そう言うこともあるよ」 と言って、相手が 「そうだよな」 と元気になったとする。しかし、自分が末期癌であることを宣告された人に 「世の中そう言うこともあるよ」 と言って、相手は 「そうだよな」 となるだろうか? ならないだろう。前者は、まだ心に余裕があり、相手の言葉に 「聞く耳」 を持ち、それを 「消化する力」 があり、自分を奮い立たせる 「力」 が残っているだろうが、後者にはまず相手の言葉に 「聞く耳」 がないだろうし、あったとしても、 「それはそうだけど…」 と消化できないだろうし、そもそも 「お前にオレの何がわかるんじゃ」 となるだろう。 言葉とは全て、 「受け取る側」 のモチベーションに依拠しているのである。 それなのに、世の中には 「発する側にイニシアティブがある」 と信じて疑わない人がいて、そういう人たちがいるせいで、たくさんの 「嫌な言葉」 というのが生まれている気がする。 例えば、 「オレは、お前のためを思って言っているんだ...

乱れるのは一晩限りの女だけでいい。

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「服装の乱れは心の乱れ」 という格言がある。とても良い言葉だと思う。 「心の乱れ」 という複雑でデリケートな問題を 「服装を正せばよい」 という単細胞な解でもってねじ伏せる身も蓋も、元も子もない感じ、格言とはこうでなくてはならないと思う。 ところで、もし僕が、 「服装の他に心の乱れを現す 『乱れ』 はな〜んだ?」 と訊かれたら、間違いなく 「室内の乱れ」 と答えるだろう。独り住まいをされている方には同意していただけると思うのだけれど、心が乱れていると、室内が乱れる。これはもう間違いない。 「室内の乱れは心の乱れ」 である。 先述のエントリーで、別に僕はここ最近穏寧無事に生活しているわけではない旨書かせていただいたのだけれど、これは事実で、ここ2週間ほどの僕の心は荒れに荒れている。 現在、目の前にうずたかく山積している問題に立ち向かいて、1つ1つ丁寧に片付けをしているのだけれど、 「1つを片付けるとなぜだか新に2つの課題が増える」 という不可思議な症状に見舞われており、問題を片付ければ片付けるほど、結果、問題が増えていくという状況に身を置くうちに、僕の心は乱れ、荒み、腐乱していった。 するとどうなるか。 気がつくと、部屋が絶望的なまでに乱れていたのである。 脱いだ靴下は脱いだ場所に、飲み終えたコップは飲み終えた場所に、食い終えた皿は食い終えた場所に、読み終えた本は読み終えた場所に、読んでさえいない封書は玄関付近に、無秩序に不作法に散らばって、たとえばトイレの便器脇にステレオのリモコンが置いてあったり、珈琲を空けたマグカップに使い終えたフェイシャルペーパーが丸めて突っ込んであったり、寝床で背中が痛いなぁと思ったらベッドのど真ん中に認め印が置いてあったり。 とにかく部屋は乱れに乱れきっており、また僕は山積する課題との格闘に100%を費やしていたため、それらを片付ける心的余裕を失ったまま2週間を過ごしていた。 するとどうなるか。 コーヒーを飲むのにマグカップがない。目玉焼きを焼くのにフライパンを洗っていない。さっき買ってきたコーラだと思って飲んだコーラが3日前に買ってきたコーラの飲み残しで、ぬるい弱炭酸の液体が口腔内に入ってきてそれを吐き出して咽せた、その咳で灰皿の灰が舞い上がり、その灰を鼻から吸ってしまった僕はクシャミをした勢い...

ものには適正な大きさがある。

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auがandroid端末をタダ同然で配ってる件について → http://bit.ly/aXHOQP IS01 前にIS01を電車で使てる人がいて、 「アレはいったい何なんや」 と驚いた。なんせデカいのである。もはや携帯電話のサイズではない。NINTENDO DSよりも一回りぐらいデカい。その時IS01を使てた人は、 「ふふん、ボクは今、最先端にいるんだよ」 みたいな鼻の穴のデカさで自慢げに端末をさわっていたけれど、僕は全然羨ましいと思わなかった。結果、この始末である。買ったばかりの端末が無料同然で配布されている今、彼はどういう気持ちで自分のIS01と向き合っているのだろう。きっと彼は多額の金子を支払ってこの端末をゲットしたのだろう。予約していたかも知れない。そのために艱難辛苦に耐えながら働き、働いて働いて、ようやく手にした給与の、ほぼ全額を使って購入したであろう端末が、この短期間で無料になっている。 不憫でならない。 でも、まぁ正直それはどうでも良い。あれはどう見たって、失敗作である。そういったものを見極める目を、彼が持っていなかったということである。だからどうでもいい。 ちなみに、そんな不憫な彼を、不憫な目で見ているとき、僕の膝の上にはiPadが置いてあった。iPadはIS01なんかとは比べものにならないくらいデカい。一部の心ない人からは 「ただのデカいiPod touchだろ」 と言われている。 左がiPad、右がiPod touch しかし、iPadのよさは、その 「ただのデカい部分」 にこそあるということを、非iPadユーザは気付いていない。 「ただのデカいiPod touch」 のポテンシャルをナメてるとお前ら本当にいたい目に遭うぞ、と僕は言いたい。 いつの頃からか、日本には 「小さければ小さいほどよい」 という風潮が生まれていた。携帯もウォークマンも 「世界最軽量」 だとか 「世界最小」 というのが惹句になる世の中になってしまっていた。たぶんそれは、日本が持つ技術力に依拠した、それを世界に誇示したいがための一種のプロパガンダだったのではないだろうか。たしかに、持ち運ぶ必要のあるものは小さい方が良いこともある。しかし、一事が万事、全部が全部小さい方が良いわけではない。世の中には 「おっきい方がいいときもある」 という...

幸せであれ。

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「生きていくんだよ、荒れた道に何度足をすくわれても」 なんてことを言うてる奴がいて、誰やお前、お前は誰やって、考えたらオレが昔、 『デラシネの唄』 っつう曲で作詞した歌詞だった。ってか、かー、生意気なやっちゃで。あの時齢18。酸いも甘いも知らんくせに、いっぱしの口効いたもんだぜ。 しかし、結局幸せなんて、ゴロゴロ転がってる。例えばその昔、風流を解した人々は、お猪口に張った日本酒に満月が映り込んでいるのをみて、満月を飲み干したっつって悦んでいたとか。 雨が降る。水溜まりができる。水たまりに満月が映り込んでいる。その満月を思い切り踏みしめて、月面着陸っつって笑ってたって良い。 昨日蕾だった花が今日咲いていて、夜の間に必死こいて咲いたんだなぁっつって想像してみて、そこに幸せを感じてみてもいい。 「いや、別に用はないんやけど」 っつって、愛する人から電話がかかってくることに、エレベーターでみんなが降りるまで 「開」 を押してたら、見ず知らずの人に 「ありがとうございます」 って言われることに、幸せを感じるのも良い。 子供は、おしゃぶりをくわえてるだけでも幸せだと感じているし、パパに、ママに抱っこされるだけでうれしいと思う。パパやママは、子供が少し笑っただけで、その一挙手一投足に幸せを感じる。 交差点に向かっていて、赤信号だったのが、自分が横断歩道に足を踏み入れる瞬間に青信号に変わって、一度も止まらずに3里進めて嬉しかったってのもありだろう。 まっすぐ帰りたくないなと思って、行きつけのバーに行ってみたら、昔なじみが顔を揃えていたってのも幸せだろう。 どれだけ用意周到に人生を生きてみても、思いがけないことは必ず起こる。 「えー、まじでー」 つって、悲しいことも起こる。そもそも、今日寝て、明日起きられるかどうかだってわからない。 ある人は言ってたよ。 「朝目覚め、これからの人生の、歴史的一回目のトイレへと」 つって。 幸せを選りすぐらなければ、どんなことだって幸せになるんだろうな。 そして、願うもの、目指すもの、それがどんなものであったって、あんたにそれがある限り、あんたの人生は果てしない。 ある人は言ってたよ。 「人は、願う物がある限り、果てしない」 つって。 あんたは何を願う? 自分の幸せ、親の健康、子供の健康、目標と...

唸れ、オレのイングリッシュ。

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スウェーデンからの客人、 オーラ&アニー の2名との英会話で、既に脳髄に鈍痛を覚えるほど低い僕の英語力だというのに、突然、オーラ&アニーが北京で出会ったというスコットランドからの贈り物、 ボビー&カースティ の2名が追加されて、合計4名のイングリッシュスピーカーを独りで市中引き連れて僕は神戸を徘徊した。 イングリッシュスピーカーはなんかしらんけど、声がでかく、それに加えてアニーという女の子はとにかくフレンドリィ。フレンドリィが服着て歩いてるような女の子なので、例えば事務的にレジをこなすコンビニエンスストアの店員に、後ろに行列を待たせながら 「アリガトゴザイマシタ? アリガト? イタダキマス?」 と覚えたて、かつ、うろ覚えの日本語で笑顔で話しかけてしまうアニーを 「もう大丈夫だよ」 とたしなめながら、病的なまでに心配性のオーラが広島までの行き方を何度も何度も確かめてくるのに 「それがベストプランだよ」 と答えながら、本日いきなり極寒に襲われた神戸にTシャツ1枚で乗り込んできたボビーを 「大丈夫?寒くない…わけないよね」 と気にかけながら、日本の文化に興味津々まくりのカースティに 「神社と寺の違い」 、つまり 「神道と仏教の違い」 ついて、 「死生観」 の側面から説明するということを全部英語でやっていたら脳髄がどろどろに溶けて耳から出てきたので耳栓をしようとしたけど、耳栓をしてしまったら、彼ら・彼女らからの質問に答えられなくなるので僕は耳栓をしなかった。だから脳髄がナクナッタ。 体が冷えてしょうがないので雑貨屋に入り、アニーの 「ホワイトニング剤の入っていない安価なファンデーションが欲しい」 という希望に応えるべく、三葉さんのためにもしたことないのに、化粧品売り場で化粧クサいおねいさんに質問しようとして、ずっと英語で話していた僕は、おねいさんを 「Hey!」 と呼んでしまって、 「何調子乗ってんだよ、この青二才」 みたいな顔で見られて落胆しているうちに夕餉の時間になった。 外国人をもてなすときに一番苦労するのが食事であるが、実は、 「外国人にはお好み焼きを食わせておけばいい」 という必勝パターンが僕にはあるので、友人が経営するお好み焼き屋に行ったら、友人に 「いつの間に国籍変えたんや?」 と言われてしまったあとも、英語の1人称は 「I」 だけだけども、日本語...

派遣切り切り。

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サブプライムローン問題に端を発した世界恐慌の渦に飲み込まれる我が国ジャポン。出口のない暗黒海路を日和もなく彷徨い歩く労働者の群れ。 僕なんかは、サブプライムローン問題のことをよく知っとる から、必然現在の労働者の境遇が看過できないほど劣悪大ピンチだということがよく理解できる。ホンマに大変やなー。 そういう僕だから情報収集に関して枚挙に暇がない。は!しまった! 「枚挙に暇がない」 を使いたくて、全然間違った使い方をしてしまった。恥ずい。 先日もニュース番組を観ていたら、やっぱりやっていて、労働問題。 なんでも、おびただしい数の派遣労働者たちが雇用主からの突然の解雇通告を受けて、うろきてもうてるらしやないか。あ、ちなみに 「うろきてもうてる」 というのは、関西弁で 「愕然として狼狽えている」 ぐらいの意味です。アクセントは 「ろ」 です。僕は 「えらいこっちゃ」 と思って、言うて、テレビにかぶりついた。 派遣労働者の直面している現実は、甚だしく劣悪最悪であった。 少島義明 (すこしまよしあき) さんの例を見てみると、悲惨であった。 少島さんは今、大手三菱重工でパイプを切断する仕事を仰せつかったはる、36歳でバリバリの派遣労働者である。彼は28歳から8年間パイプを切断し続けていて、時給1,100円。少しく心許ない金額である。 ナレーターの話に耳を傾けてみると、彼は偉いので、雇い主が用意した寮に入居しており、月々3万5千円もの大金を上納しているという。寮住まいで光熱費が不要であるとは言え、3万5千円といえば大金である。350円のものが100個買えることを想像してみればわかるでしょ? これを住居費として搾取されているというのは、本当に可哀想である。 そういう卑劣な搾取の憂き目に遭い続けた結果、ナレーターに寄れば、彼が月々自由に使えるお金というのが、たった13万円しかないというから驚きである。13万円で一体何ができるであろうか。食費を1日4,000円に切りつめても12万円かかってしまう。もう1万円しか残らないのである。それにたまにはピンクサロンやソープランドの類にも行かなアカンし、キャバクラにも通うだろう。そしたらキャバ嬢のおねいさんとねんごろになるため、携帯電話でバカスカ電話をかけなアカンから、電話代はまぁ、概算で4万はいくな。スターバック...

読者レベルについて。

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悩んでいる、というのは 『1Q84』 を読むか否かについてである。村上春樹っつったら、イスラエルかなんかで文学賞をもらった際のスピーチで 「壁に卵をぶつけたら割れるけど、でも壁に卵をぶつけ続けるのが作家だ」 みたいな、僕にしてはわけのわからないスピーチを打ち噛まして拍手喝采を受けた傑人である。 ハルキストだかハルキニストだかアルピニストだかいうフリークもたくさん抱える、日本を代表する作家だ。 そんな作家の最新作品である 『1Q84』 を読むべきか、悩んでいる。 理解できるのかどうかが、不安なのである。 先日読み終えた 『東京奇譚集』 という短篇集の中に、マンションで旦那が行方不明になったから探してほしいと依頼を受けた探偵が旦那を探しつづけたけれど見つからず、後日仙台かなんかで警察に保護されて旦那が帰ってきたという話があった。 なんじゃそりゃ、と思った。こんな物語をわざわざ文章にして出版していいのかと思った。 つまり、僕は村上春樹を理解できる読者レベルにまだ達していないのである。 『ノルウェイの森』 を読んだときも勃起しただけやったし。 どんな作品も、作り手が一番長い時間をかけて作品と触れ合うだろう。作家が3年かけて書いた本が1日で読まれてしまうこともある。 でも、できたらできるだけ理解したいと思うから、悩んでいる。 ちなみに、 『1Q84』 はここ最近の出版部数記録を大幅に塗りかえたらしい。これはつまり普段本を読まない人まで 『1Q84』 は読んでるということだろうけど、そんな人たちに世界の村上春樹、ノーベル文学賞に近い作家村上春樹の 『1Q84』 に込められたメッセージやテーマを読み取れるのだろうか。これはまぁ、皮肉です。 本を読むことが 「えらいこと」 だとは思わないけれど、赤川次郎や星新一は楽しめるけど村上春樹はわからんという人は当然いるだろう。 あと、その人の本を読むにあたり、予備知識があったほうがよく理解できるということはあると思う。西尾維新なんかはアニメ系を知ってたほうが楽しめるだろうし、森博嗣を読むなら理系工学の知識があった方がわかるだろう。伊坂幸太郎ならビートルズと芥川龍之介かな。六本木ヒルズに住むセレブが町田康や小林多喜二を楽しめるとは思えないし。 村上春樹ならなんだろう、とりあえずジャズなんかなぁ、...

自分探しとか、言ってろ。

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最近、喋りたくもない人と喋る機会が多くて、そういうときは自分の中にいる、最も社交的で、最も明るい人間を引っ張り出してきています。 登場頻度が上がってしまって、最も明るい 「僕」 は最近お疲れモードで 「ちょっと、ここまでしょっちゅう出るって聴いてないんですけど」 って言うていて、今日も土日の出勤の疲れというか、土日の出勤における、しょうもない人とのコミュニケーションの疲れから、午後から代休を取って帰宅、家で町田康を読んでいました。 人間、ある程度の年齢になると、勝手に 「私はこういう人間だ」 と言うようになります。これは往々にして 「私はこういう人間だから仕方がない」 というケースに使用されます。そのため、人間はいろんなことを 「らしくない」 とか 「違う世界」 とか言っては諦め、その行動は少しずつ限定されてきます。 でも、実際自分の中身をヘソの穴からオッ広げて覗き込んでみると、中にはたくさんの僕がいます。会社にいるときの僕、一人でいるときの僕。いや、ワダワーダさんと接しているときの僕と、妹と接しているときの僕も違うし、親と接しているときの僕も違う。 臨機応変に多種多様な自分を使い分けてみんな生きているわけで、年齢に応じて、その数は増えてくる。増えてくると収拾がつかなくなる。だからみんな、一旦自分にレッテルを貼りたくなる。 「私はこういう人間だ」 という風に、溢れんばかりの自分を一本化し、特に 「一人でいるときの自分」 に全権を与えて笑う。 でも、一人でいるときの自分も、誰かといるときのたくさんの自分も、どっちも自分だし、社交的で明るくてペラペラあけすけに物を言うのも自分だし、むっつり黙って休日河原で四つ葉のクローバーを探しているのも自分。同じへその中の自分なのです。 たとえば愛想笑いをしているときなんか、自己嫌悪になったりしますが、それはただの思い込みで、自分の基本的な人格みたいな物を 「こういう人間だ」 と決めているから、それからちょっとはみ出した自分を出したときに勝手に恥ずかしがっているだけなのです。 それか、もしくは、本来そのケースにおいて、自分の中にあるAの自分を出す方が良かったのに、Dを出してしまったから恥ずかしいとかね。その程度のことなのです。 それなのに、みんな 「私はこんなはずじゃない」 と言って悩んでいる。 でも、...

オレ、コイツ、キライ。

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日本人に大バッシングのイルカ漁映画『ザ・コーヴ』、配給会社社長が反論! 「日本人の手で撮影されなければならなかった作品」 http://www.cinematoday.jp/page/N0024208?g_ref=twitter 「『いただきます』という言葉は生きとし生けるものの命をいただくということの感謝を表していると言いますが、実際には必要以上の命をいただいているわけです。日本人の謙虚さをもう一度思い出すべきではないかと思います」 『日本人の謙虚さ』ってなんじゃい。 謙虚な日本人もおれば謙虚じゃない日本人もおるし、謙虚な外国人もおれば謙虚じゃない外国人もおるし、必要以上に食うてる日本人もおれば、食えなくて泣いてる日本人もおるし、必要以上に食うてる外国人もおれば、食えなくて死んでる外国人もおるし、イルカ食う日本人もおるし、イルカ食わん日本人もおるし、イルカを可愛いと思う日本人もおるし、イルカを怖いと思う日本人もおるやろう。 そもそもお前は都合の良いところだけ懐古的なんじゃ。イルカ猟はその地方の古来の文化なわけやろ。お前の言うように、古来、日本人が仮に謙虚やったとしても、日本のある地方で、謙虚な日本人がイルカを食うとったいうだけやないか。 ものっそ謙虚な日本人が、感謝の心を忘れずに、必要最低限にイルカを食うてたとしたら、お前はそいつにどう説教するねん。 んで、もう、ホンマ、こういう部分がぽっと出感丸出しやけども、 「ハリウッドセレブではヘイデン・パネッティーア、ロビン・ウイリアムズ、ベン・スティラーなどが映画への応援メッセージを寄せています。レオナルド・ディカプリオも自身のサイトでこの映画を紹介しています」 お前、舌の根の乾かぬうちに日本人の心忘れてハリウッド飛んでしもとるやないか。んで、ヘイデン・パネッティーアって誰じゃ~い! ピザか! ピザの名前か! 「世界の主要国すべてから非難されていると言ってもよい問題」 ってなんやねん、大雑把やねん、お前の意見はなんもかもが。主要国ってなんやねん。んで、主要国から非難されるのと非主要国から非難されるのとでは何が違うねん、体裁か? 体裁か? 体裁やろが!! イルカ食おうが、クジラ食おうが、牛食おうが、人食おうが、別にええやないか。 んで、イルカ食うヤツを批難しようが、クジラ食うヤツを批難しよう...

風を見るということ。

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風は目に見えない。 けれど、木々が揺れることで、前髪が視界を横切ることで、耳が拾う音で、今ここに風が吹いていることはハッキリわかる。 目に見えないものであっても、それ以外の、目に見えるものがその影響を受けて変化する、その様子を見れば、そこに確かに存在することはわかるんだ。 揺れる木々を見ること、視界を横切る前髪を掻き分けること、音に耳を傾けること、それがつまりは、 「風を見ている」 という意味になるのかもしれない。 人生の流れが風に例えられるなら、それは目には見えないけれど、今の僕は、普段なら考えないようなことを考え、感じないことを感じ、しないようなことをしようとしている。目に見えないなにかの影響を受けて変化している。 そこを考えたら、今の僕の人生は、確実に流れているとわかる。 僕の人生はゆっくりと動いているとわかる。 僕の今の試練は、少しずつ少しずつ、前に進んでいるとわかる。 そして、師が云うように、 「風の始まりと終わりに立つ者はいない、どこかで生まれた風が我々に向かい、我々を通りすぎてどこかへ消えていく。我々はただ、風の通る道に立つだけである」 の言葉の通り、今の僕の人生の流れも、やがて僕を通りすぎていくだろう。 僕のもの、僕の人生であっても、僕に与えられた試練であっても、どこかに消えていくだろう。 僕にできることは、せいぜい視界を横切る邪魔な前髪を掻き分けたり、短く切り捨てたりすることくらいだけど、それをしてもしなくても、影響を受けて変化をし始めた今、風はそのうち僕を通りすぎていくだろう。 僕の不格好で不安定な感情や、過去への執着、傷や恨み、悲しい気持ち、全てを載せて行ってしまうだろう。 過ぎ去っていく風が、僕の足元に、落ち葉のように落としていくものは、僕に残していくものは、全てが終わったという実感と、次の風への期待感と、全ての人たちへの感謝。いずれにせよ楽しいものばかりだろう。 悲しいからつらいんだ。 つらいから試練なんだ。 そのとき僕が考え、感じ、誰かを頼り、誰かに助けてもらい、自分が動く。そうやって目に見えないものの影響を受けて変化すれば、試練は、風はそれを見届けて去っていくんだ。 だから、残るのは楽しい気持ちだけなんだと確信できる。 どん底にいたとき、友達から 「幸せなんてそこ...