自分探しとか、言ってろ。
最近、喋りたくもない人と喋る機会が多くて、そういうときは自分の中にいる、最も社交的で、最も明るい人間を引っ張り出してきています。
登場頻度が上がってしまって、最も明るい「僕」は最近お疲れモードで「ちょっと、ここまでしょっちゅう出るって聴いてないんですけど」って言うていて、今日も土日の出勤の疲れというか、土日の出勤における、しょうもない人とのコミュニケーションの疲れから、午後から代休を取って帰宅、家で町田康を読んでいました。
人間、ある程度の年齢になると、勝手に「私はこういう人間だ」と言うようになります。これは往々にして「私はこういう人間だから仕方がない」というケースに使用されます。そのため、人間はいろんなことを「らしくない」とか「違う世界」とか言っては諦め、その行動は少しずつ限定されてきます。
でも、実際自分の中身をヘソの穴からオッ広げて覗き込んでみると、中にはたくさんの僕がいます。会社にいるときの僕、一人でいるときの僕。いや、ワダワーダさんと接しているときの僕と、妹と接しているときの僕も違うし、親と接しているときの僕も違う。
臨機応変に多種多様な自分を使い分けてみんな生きているわけで、年齢に応じて、その数は増えてくる。増えてくると収拾がつかなくなる。だからみんな、一旦自分にレッテルを貼りたくなる。「私はこういう人間だ」という風に、溢れんばかりの自分を一本化し、特に「一人でいるときの自分」に全権を与えて笑う。
でも、一人でいるときの自分も、誰かといるときのたくさんの自分も、どっちも自分だし、社交的で明るくてペラペラあけすけに物を言うのも自分だし、むっつり黙って休日河原で四つ葉のクローバーを探しているのも自分。同じへその中の自分なのです。
たとえば愛想笑いをしているときなんか、自己嫌悪になったりしますが、それはただの思い込みで、自分の基本的な人格みたいな物を「こういう人間だ」と決めているから、それからちょっとはみ出した自分を出したときに勝手に恥ずかしがっているだけなのです。
それか、もしくは、本来そのケースにおいて、自分の中にあるAの自分を出す方が良かったのに、Dを出してしまったから恥ずかしいとかね。その程度のことなのです。
それなのに、みんな「私はこんなはずじゃない」と言って悩んでいる。
でも、じゃあどんなはずだったらよかったのか。自分の中にいる自分が一人であると言うことが、本当にカッコいいことなのか、そこをじっくり考えてみると、カッコいいどころか、それはもう、最低です。
臨機応変に自分を変えられない人間を古くから「傍若無人」と言います。
「傍らに、人なきがごとし」、「周りに人がいるのに、誰もいないかのようにマイペースで行動する」、それが「自分を持つ」ということだと思います。
今日、僕は部署の朝礼でとても悲しい想いをしました。
僕は、わりと会社にいる、色んな人が好きなのですが、僕は上司から期待されているため、入社8ヶ月にはありえないほどのハイレベルな仕事を任されることになり、朝礼でそれが発表されたのです。
みんな、言葉にはしないけども「なんでアイツやねん」という目で見てきます。その時に、「言うとけや、クズども」と啖呵を切ることはある意味で簡単です。自分の中で、一番強気な自分を出せばいいからね。
でも、自分ひとりの手に負えるようなものではないことを背負わされた今、ぼくにとって、僕を白い目で見ている人たちはとても重要な存在なのです。だから僕は、自分の中で最も明るい自分を引っ張り出してきて、「いろいろ迷惑かけるかも知れませんけど、よろしくお願いします」と頭を下げ、ジョークを言い、莨に誘い、おばちゃんから「私のことずっと見てるでしょ~」と言われれば「どこのマリリンモンローかと思いました」みたいなことを言うのです。
新入社員の話を聴くと、夢や理想に満ち満ちていて、それはとても素晴らしいと思いますが、言葉の端々に「オレはやるぜ」、「私はやる人間だぜ」という自信が垣間見えます。でも、お前らには無理です。今、お前らにできるのは自分の中にいる、社交的な自分を引っ張り出してきて、挨拶に回ることだけです。失敗した場合、言い訳をするのではなく、素直に謝れる自分を引っ張り出してくるだけなのです。
どれだけ明るい人間でも落ち込むし、どれだけ冷たい人間でも犬が好きだったりする。普段とても面倒見の良い上司が急に機嫌が悪かったり、自分を毛嫌いしていたはずの先輩から機嫌良く話しかけられたりする。
そんなことで戸惑っていてはいけないのです。
その人達も、各々、自分の中に何人もの自分を持っている。だから戸惑ってはいけないし、逆にその場の振る舞いだけで「なんだ、思ってたよりいい人だったんだ」と決めつけるのもダメ、「なんだよ、面倒見のいい人だと思ってたのに」と決めつけるのもダメ。
人間、外見は固体として固まっていますが、腹の中はリキッドで、色んな形になったり、色んな色になります。「自分」なんて物は誰を相手にするか、どこにいるか、どういう状況にいるかで流動的に変化するもの。
そんな自分の腹の中を観察して「これぞオレ」なんて言うのは時間の無駄です。
明日の会社の飲み会で、たぶん僕は一発芸をやらされると思いますが、その時は全身全霊でモノマネをやってやりたいと、そう思っています。
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登場頻度が上がってしまって、最も明るい「僕」は最近お疲れモードで「ちょっと、ここまでしょっちゅう出るって聴いてないんですけど」って言うていて、今日も土日の出勤の疲れというか、土日の出勤における、しょうもない人とのコミュニケーションの疲れから、午後から代休を取って帰宅、家で町田康を読んでいました。
人間、ある程度の年齢になると、勝手に「私はこういう人間だ」と言うようになります。これは往々にして「私はこういう人間だから仕方がない」というケースに使用されます。そのため、人間はいろんなことを「らしくない」とか「違う世界」とか言っては諦め、その行動は少しずつ限定されてきます。
でも、実際自分の中身をヘソの穴からオッ広げて覗き込んでみると、中にはたくさんの僕がいます。会社にいるときの僕、一人でいるときの僕。いや、ワダワーダさんと接しているときの僕と、妹と接しているときの僕も違うし、親と接しているときの僕も違う。
臨機応変に多種多様な自分を使い分けてみんな生きているわけで、年齢に応じて、その数は増えてくる。増えてくると収拾がつかなくなる。だからみんな、一旦自分にレッテルを貼りたくなる。「私はこういう人間だ」という風に、溢れんばかりの自分を一本化し、特に「一人でいるときの自分」に全権を与えて笑う。
でも、一人でいるときの自分も、誰かといるときのたくさんの自分も、どっちも自分だし、社交的で明るくてペラペラあけすけに物を言うのも自分だし、むっつり黙って休日河原で四つ葉のクローバーを探しているのも自分。同じへその中の自分なのです。
たとえば愛想笑いをしているときなんか、自己嫌悪になったりしますが、それはただの思い込みで、自分の基本的な人格みたいな物を「こういう人間だ」と決めているから、それからちょっとはみ出した自分を出したときに勝手に恥ずかしがっているだけなのです。
それか、もしくは、本来そのケースにおいて、自分の中にあるAの自分を出す方が良かったのに、Dを出してしまったから恥ずかしいとかね。その程度のことなのです。
それなのに、みんな「私はこんなはずじゃない」と言って悩んでいる。
でも、じゃあどんなはずだったらよかったのか。自分の中にいる自分が一人であると言うことが、本当にカッコいいことなのか、そこをじっくり考えてみると、カッコいいどころか、それはもう、最低です。
臨機応変に自分を変えられない人間を古くから「傍若無人」と言います。
「傍らに、人なきがごとし」、「周りに人がいるのに、誰もいないかのようにマイペースで行動する」、それが「自分を持つ」ということだと思います。
今日、僕は部署の朝礼でとても悲しい想いをしました。
僕は、わりと会社にいる、色んな人が好きなのですが、僕は上司から期待されているため、入社8ヶ月にはありえないほどのハイレベルな仕事を任されることになり、朝礼でそれが発表されたのです。
みんな、言葉にはしないけども「なんでアイツやねん」という目で見てきます。その時に、「言うとけや、クズども」と啖呵を切ることはある意味で簡単です。自分の中で、一番強気な自分を出せばいいからね。
でも、自分ひとりの手に負えるようなものではないことを背負わされた今、ぼくにとって、僕を白い目で見ている人たちはとても重要な存在なのです。だから僕は、自分の中で最も明るい自分を引っ張り出してきて、「いろいろ迷惑かけるかも知れませんけど、よろしくお願いします」と頭を下げ、ジョークを言い、莨に誘い、おばちゃんから「私のことずっと見てるでしょ~」と言われれば「どこのマリリンモンローかと思いました」みたいなことを言うのです。
新入社員の話を聴くと、夢や理想に満ち満ちていて、それはとても素晴らしいと思いますが、言葉の端々に「オレはやるぜ」、「私はやる人間だぜ」という自信が垣間見えます。でも、お前らには無理です。今、お前らにできるのは自分の中にいる、社交的な自分を引っ張り出してきて、挨拶に回ることだけです。失敗した場合、言い訳をするのではなく、素直に謝れる自分を引っ張り出してくるだけなのです。
どれだけ明るい人間でも落ち込むし、どれだけ冷たい人間でも犬が好きだったりする。普段とても面倒見の良い上司が急に機嫌が悪かったり、自分を毛嫌いしていたはずの先輩から機嫌良く話しかけられたりする。
そんなことで戸惑っていてはいけないのです。
その人達も、各々、自分の中に何人もの自分を持っている。だから戸惑ってはいけないし、逆にその場の振る舞いだけで「なんだ、思ってたよりいい人だったんだ」と決めつけるのもダメ、「なんだよ、面倒見のいい人だと思ってたのに」と決めつけるのもダメ。
人間、外見は固体として固まっていますが、腹の中はリキッドで、色んな形になったり、色んな色になります。「自分」なんて物は誰を相手にするか、どこにいるか、どういう状況にいるかで流動的に変化するもの。
そんな自分の腹の中を観察して「これぞオレ」なんて言うのは時間の無駄です。
明日の会社の飲み会で、たぶん僕は一発芸をやらされると思いますが、その時は全身全霊でモノマネをやってやりたいと、そう思っています。
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