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言葉は人を救わない。

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賢人達は皆、 「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」 と仰る。まさに慧眼、すげぇええこと言うなぁと思う。 僕には他人の発する言葉に対して必要以上に懐疑的であったり、深読みをしすぎる傾向があるため、 「言葉」 というものに対して平均以上に敏感であると自負している。 「自負」 の使い方が間違ってるような気がするけどもね。 さて、先に書いたとおり、 「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」 、蓋し正論である。 たとえば 「あなたの言葉に勇気づけられた」 と言われた場合、それは間違っている。言葉にはそんな力はない。もしもあなたが僕の言葉で勇気づけられたのだとしたら、それは僕の言葉に 「力」 があったのではなく、あなたに僕の言葉を 「理解」 し、そしてそれを 「消化」 し、その上で自分を奮い立たせるだけの 「力」 があったということでしかないのだと思う。 というのも、もし万が一、 『言葉そのもの』 に力があるのだとしたら、 「薬」 のような効能があるのだとしたら、世界中のどんな人でも救えるような 「魔法の言葉」 があるはずだし、誰がその言葉を口にしてもたちまちに相手を元気にさせることができるはずではないか? しかし、実際は違う。 片想いの相手にフラれた程度の相手に 「世の中そう言うこともあるよ」 と言って、相手が 「そうだよな」 と元気になったとする。しかし、末期癌を宣告された人に 「世の中そう言うこともあるよ」 と言って、相手は 「そうだよな」 となるだろうか? ならないだろう。前者は、まだ心に余裕があり、相手の言葉に 「聞く耳」 を持ち、それを 「消化する力」 があり、自分を奮い立たせる 「力」 が残っているだろうが、後者にはまず相手の言葉に 「聞く耳」 がないだろうし、あったとしても、 「それはそうだけど…」 と消化できないだろうし、そもそも 「お前にオレの何がわかるんじゃ」 となるだろう。 言葉とは全て、 「受け取る側」 のモチベーションに依拠しているのである。 それなのに、世の中には 「発する側にイニシアティブがある」 と信じて疑わない人がいて、そういう人たちがいるせいで、たくさんの 「嫌な言葉」 というのが生まれている気がする。 例えば、 「オレは、お前のためを思っ

東京が、攻めてくる。

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通っている職業訓練校に、夜場さんという方がいる。55歳で、以前は繊維系商社にお勤めで、上海に9年住んでいらっしゃったのだけど、僕は夜場さんと喫煙所で和談するのをとても楽しみにしている。 この方の話はとにかくおもしろいのである。ものすごくおもしろい。こんな55歳になりたいと心から思うし、会社勤めの時、この人が上司だったら、僕のサラリーマン生活も変わっていたかもしれないとさえ思う。まぁ、上司のせいにするのはよくないが。 この方には、持論がある。持論はあるのだけれど、年齢が半分しかない僕の意見にもきちんと耳を傾けてくれる。たぶん、知識欲が豊富な方なのだろう。若輩の意見に対しても 「あぁ、そうか、そういう考え方があったかぁ」 と共感してくれるし、意見が食い違っても、年齢にかこつけて頭ごなしに否定するようなことは絶対にしない。 今日、そんな夜場さんと、神戸についての話をした。僕も夜場さんも神戸に住み、基本的に神戸を愛している。僕は神戸が好きだ。独特の雰囲気があって、地方都市だけれど、全国区の知名度がある。 「兵庫県」 という県名よりも 「神戸」 という市名が先に出てくるのは、横浜か神戸ぐらいのものじゃないかという手前味噌な認識がある。 ということで、僕はそのとき、夜場さんの前で神戸を絶賛していた。神戸愛について熱弁していた。夜場さんも同じく、神戸を愛する人であるので僕の話をうなずきながら聞いてくださっていた。 しかし、その雰囲気が少し変わった瞬間があった。それは僕が 「神戸は、東京へのあこがれみたいなものが薄くて、地方都市としても自立しているのが誇らしい」 という話をしたときである。僕は神戸に対し、そういう認識を持っていた。 夜場さんは 「でもね」 と言って、このような話を切り出した。 かつて、神戸に限らず、地方都市は、どこでもそれなりに自立していて、その土地その土地ならではの特色があった。しかしそれがある時期を境に、変わっていった、地方都市が東京にお伺いを立てるようになり、地方都市の 「独自性」 が失われていったと思うと夜場さんは言うのである。 そして夜場さんはこう言った。 「ある時期」 というのはね、 『新幹線が通ってから』 なんだよ、と。 新幹線が開通して以来、地方都市の独自性が、すべて東京に奪われていったと夜場さんは言う。その