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芦屋市某町で最も栄誉ある音楽賞、ヒロニー賞2011発表。

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さて、今年もやってまいりました。ヒロニー賞2011の発表を行いたいと思います。
ヒロニー賞は、2011年1月1日以降に僕のパソコンに追加された曲の中から、年間を通じてiTunesおよびiPodでの再生回数の最も多かったアーティストに贈られるという、芦屋市某町における最大の音楽賞です。

受賞資格は下記の通りです。
1)僕のパソコン(iTunes)に入っていること。
2)追加日が2011年であること(発売日が2010年以前でも追加日が2011年以降であれば受賞資格有り)
3)プロ、アマ問わず。
昨年は「楽曲」に対して贈られたヒロニー賞ですが、今年を集計したところ、10位以内に同一アーティストの楽曲が7曲も入ってしまうという異常事態になってしまったため、今年は再生回数ベスト100に入った楽曲の再生回数を、アーティスト別に集計し、『最も再生された10アーティスト』の発表に変更しました。

では早速発表に移ります。本場グラミー賞とは違い、ヒロニー賞はランキング形式でベスト10をお送りいたします。

それでは、参りましょう。

第10位:Mat Kearney

【合計再生回数:86回『Sooner or Later』(12月21日 追加)

《寸評》
突如として現れた、正体不明の男性シンガーソングライター、Mat Keaney。なんと読むのかもわからない。前情報も全くなく、このまま彼を知らずに年を越しても不思議ではなかったはずなのに、まさかのランクイン。それもそのはず、2011年デビューのぴっかぴかの剥きたまご。デビューアルバム『Young Love』も別段iTunesランキングに入ってきたわけではない。それなのにどうしてここまでの再生回数を記録したかというと、それはGoogleさんが年末に発表した『Zeitgeist 2011- Year In Review』という動画のおかげである。この動画のBGMがMat Kearneyの『Sooner or Later』なのである。僕はこの動画に衝撃を受け、そして、なんだこの素敵な音楽は…と感動し、そしたらもう、キャプションに書いてあって即購入。そこからは伝家の宝刀「1曲リピート」で聴くに聴きまくったら、たった5日間でベスト10入りしたのである。

声が、ColdplayのChris Martinに似ているのがよかったのか、この心揺さぶるコード進行…

どうしてこうなる?

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Facebookを見ていて、大好きなバンド、Coldplayがなんか動画をアップしていた。こんな感じで。




説明の欄に『Feist: How Come You Never Go There. Beautiful. Will』と書いてある。
iPodのCMソングを歌って一躍人気になったカナダの女性シンガーソングライターに「Feist」という人がいるので、どうやらこの動画は自分たちの新作とかではなく、Feistの『How Come You Never Go There』という曲のPVかなんかであり、それが「Beautiful」なのだと言ってるんだなぁというとこまではなんとなくわかったのだけど、最後の「Will」ってなんだろうと疑問に思った。

そこで、説明書きの下にある「翻訳を見る」をクリックしてみる。最近のFacebookはなんとも気遣いができるというか、痒いところに手が届くなぁ、僕らのように外国語を解さない三流階級のために、外国語を『翻訳』してくれるだなんて、嬉しいなぁと思ってクリックしてみると、こんなことになった。




唐突に現れた「安室奈美恵」


どうしてこうなる?


追伸、もちろんFeistは安室奈美恵ではない。





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言葉は人を救わない。

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賢人達は皆、「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」と仰る。まさに慧眼、すげぇええこと言うなぁと思う。

僕には他人の発する言葉に対して必要以上に懐疑的であったり、深読みをしすぎる傾向があるため、「言葉」というものに対して平均以上に敏感であると自負している。「自負」の使い方が間違ってるような気がするけどもね。

さて、先に書いたとおり、「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」、蓋し正論である。
たとえば「あなたの言葉に勇気づけられた」と言われた場合、それは間違っている。言葉にはそんな力はない。もしもあなたが僕の言葉で勇気づけられたのだとしたら、それは僕の言葉に「力」があったのではなく、あなたに僕の言葉を「理解」し、そしてそれを「消化」し、その上で自分を奮い立たせるだけの「力」があったということでしかないのだと思う。

というのも、もし万が一、『言葉そのもの』に力があるのだとしたら、「薬」のような効能があるのだとしたら、世界中のどんな人でも救えるような「魔法の言葉」があるはずだし、誰がその言葉を口にしてもたちまちに相手を元気にさせることができるはずではないか?

しかし、実際は違う。

片想いの相手にフラれた程度の相手に「世の中そう言うこともあるよ」と言って、相手が「そうだよな」と元気になったとする。しかし、末期癌を宣告された人に「世の中そう言うこともあるよ」と言って、相手は「そうだよな」となるだろうか? ならないだろう。前者は、まだ心に余裕があり、相手の言葉に「聞く耳」を持ち、それを「消化する力」があり、自分を奮い立たせる「力」が残っているだろうが、後者にはまず相手の言葉に「聞く耳」がないだろうし、あったとしても、「それはそうだけど…」と消化できないだろうし、そもそも「お前にオレの何がわかるんじゃ」となるだろう。

言葉とは全て、「受け取る側」のモチベーションに依拠しているのである。

それなのに、世の中には「発する側にイニシアティブがある」と信じて疑わない人がいて、そういう人たちがいるせいで、たくさんの「嫌な言葉」というのが生まれている気がする。

例えば、「オレは、お前のためを思って言っているんだよ」だとか、「心を鬼にして」だとかがそうであると思う。

「お前はオレのことを思ってくれてるのかも知れ…

東京が、攻めてくる。

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通っている職業訓練校に、夜場さんという方がいる。55歳で、以前は繊維系商社にお勤めで、上海に9年住んでいらっしゃったのだけど、僕は夜場さんと喫煙所で和談するのをとても楽しみにしている。
この方の話はとにかくおもしろいのである。ものすごくおもしろい。こんな55歳になりたいと心から思うし、会社勤めの時、この人が上司だったら、僕のサラリーマン生活も変わっていたかもしれないとさえ思う。まぁ、上司のせいにするのはよくないが。

この方には、持論がある。持論はあるのだけれど、年齢が半分しかない僕の意見にもきちんと耳を傾けてくれる。たぶん、知識欲が豊富な方なのだろう。若輩の意見に対しても「あぁ、そうか、そういう考え方があったかぁ」と共感してくれるし、意見が食い違っても、年齢にかこつけて頭ごなしに否定するようなことは絶対にしない。

今日、そんな夜場さんと、神戸についての話をした。僕も夜場さんも神戸に住み、基本的に神戸を愛している。僕は神戸が好きだ。独特の雰囲気があって、地方都市だけれど、全国区の知名度がある。「兵庫県」という県名よりも「神戸」という市名が先に出てくるのは、横浜か神戸ぐらいのものじゃないかという手前味噌な認識がある。

ということで、僕はそのとき、夜場さんの前で神戸を絶賛していた。神戸愛について熱弁していた。夜場さんも同じく、神戸を愛する人であるので僕の話をうなずきながら聞いてくださっていた。

しかし、その雰囲気が少し変わった瞬間があった。それは僕が「神戸は、東京へのあこがれみたいなものが薄くて、地方都市としても自立しているのが誇らしい」という話をしたときである。僕は神戸に対し、そういう認識を持っていた。

夜場さんは「でもね」と言って、このような話を切り出した。

かつて、神戸に限らず、地方都市は、どこでもそれなりに自立していて、その土地その土地ならではの特色があった。しかしそれがある時期を境に、変わっていった、地方都市が東京にお伺いを立てるようになり、地方都市の「独自性」が失われていったと思うと夜場さんは言うのである。


そして夜場さんはこう言った。

「ある時期」というのはね、『新幹線が通ってから』なんだよ、と。


新幹線が開通して以来、地方都市の独自性が、すべて東京に奪われていったと夜場さんは言う。その昔、神戸や大阪に本社を置く企業はとても多かった。大手…

なにをそこまで。

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カンニングの事件だけれども、一体何でこんなに大騒ぎになっているんだろう。例えば、試験中に隣の席の人間の答えを覗いたとか、カンニングペーパーを使用したとかで、それらが発覚した場合、絶対にこんな大騒ぎにはならなかっただろう。
ということは、カンニングのやり方が問題だったということになるけれど、時代を考えれば、今時の学生にとって、これはカンニングペーパーと同じレベルのモノであり、時代が変わってカンニングペーパーが携帯電話になったというだけのことであると思う。

そう考えると、なにが悪いかって、今回のようなカンニングのスタイルを予想できなかった古い考え方の大学サイド、あるいは、予想していたとしてもそれを発見できなかった甘い大学サイドっていう結論にしか落ち着かないじゃないか。

1年に何万人もの大学受験生がいる中、彼以外にカンニングをした人が一人もいなかったと考えられるだろうか。僕は少なくともそこまで楽観できない。カンペや、前後左右の席の回答を覗いている人間だって絶対にいただろう。

そういった人間は咎められて失格になったか、あるいは見つかることなく逃げ切ったかしているだろう。受験生も人間であれば大学サイドも人間である。

であるなら、彼一人に全てを押しつけて「わたくしどもは完璧でした」なんて方便は最も苦しいし、非現実的じゃないだろうか。「わたくしどもにも責任がある」という一言もないというのはなんだか不気味である。大学サイドが繰り返すのは「来年の入試では改善する」ということばかり。カンニングをしたとはいえ、一人の人間の将来なんかお構いなしに、ただひたすら「糾弾すべし、徹底的に調べて欲しい」などと生け贄のように扱うのは、これ大人のすることなのだろうか。

カンニングはアカンことである。そんなことはみんな知ってるし、彼自身も知っている。でも、罪刑法定主義というのがこの国にはあって、罪には、その罪にあった罰が下されるべきで、罪以上の罰も罪以下の罰も許されない。また、罪に対する罰はすでに刑法で定められているというのが罪刑法定主義、この国の刑法の根本である。
正直、今、彼に与えられている罰は、もはや死刑に近いようなものだと思う。大学の合格を取り消されたのは仕方ないにせよ、社会的にも抹殺されたも同然だ。匿名にされているとはいえ、個人情報なんて簡単に手に入る。なによりも、事態がここま…

Bullet in a Bible.

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今まで観てきたライブビデオの中で、客が一番デカい声で歌ってるのがGreen Dayの『Bullet in a Bible』ツアーである。
歌い出しのサビに合わせて、観客が一斉に歌い始める。マイクなんてついてないのに、ボーカルに匹敵するような大音量で客は絶唱する。
こんなライブを提供できるGreen Dayというバンドはやっぱすげぇんだなぁと思うし、こういうライブに参加したいなぁと思う。

日本で外国人のライブを見ると切ない。
MCの英語を全く理解できないから、なんか、変な空気になる。

僕も決して英語ができる人間ではないけれど、それでも、MCが呟く一言二言くらいはわかる。というか、それぐらいわからないと、失礼じゃないかと思うのである。「音楽に言葉は要らない」という人がいるが、それはウソである。たとえば、外国のバンドに影響を受けて、人生観を変えられたと豪語するくせに、「世界一のバンドだ」と豪語するくせに、その世界一のバンドが何をどう歌っているのかを全く知らないでいる「ファン」が多い。

自分の大好きな人が、尊敬する人が英語を話すなら、英語を理解できるように努力すべきだと思うし、フランス語を話すなら、フランス語を理解できるよう、努力すべきだろう。その努力を怠って、「音楽に言葉は要らない」などと嘯いている人間は、「偽物」だと思う。

どれだけモッシュの仕方に詳しくても、ダイブの仕方に詳しくても、或いはそのバンドのヒストリーやバンドメンバーが使っている楽器類についての知識が豊富でも、お前がそのバンドの話者が話す言葉を解さないのであれば、それは「偽物」である。その努力をしようとしないで、「オレの人生を変えてくれた」なんて嘯くのは、やはり「偽物」である。

本物は、バンドの話者が話す言葉を、英語を、或いはフランス語を、或いは中国語を、或いはスペイン語を理解した上で、その上で「音楽に言葉は要らない」と胸を張るのである。

あなたはどっちだ?



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ええ女の条件。

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日付の変わる少し前まで、大学時代の旧友達と中華料理店にて、美味い酒、旨い食事を飲みかつ、これを食らい、和談に花を咲かせていた。僕としては珍しいというか久方ぶりの友人達との触れあいの場であり、とても楽しかった。

さて、そんな楽しい酒宴の席で、僕は「ええ女」というものに出会ったので、忘れないように、酩酊してはいるけれど、ここに記しておこうと思う。

ええ女は突如現れた、というと、さっきまでいなかったええ女が、遅参もしくは呼んでもいないのに現れたと受け取られるかも知れないが、そういう意味ではなく、その女は酒宴中ずっと僕の隣にいて、ずっと和談に参加していたのだけれど、その女が「ええ女」であるということが、突如判明したという意味である。もちろん学生時分の旧友である。全員皆ええ人、ええ友達、女も皆ええ女である。しかし、僕がその女友達に対して抱いていた「ええ度」が飛躍したのである。

話はちょうど僕が「デアゴスティーニやないねんから」というツッコミを入れたところから始まる。酒宴も佳境を超え、そろそろ最終電車が近いという折、なにかの拍子に僕は「デアゴスティーニやないねんから」とツッコミを入れたのだけど、そしたら隣に座っていたY氏がいきなり、それはもう、本当に「いきなり」と言う他ないくらいいきなり、「私、デアゴスティーニ買ってるねん。『チキュウノコウブツ』と言い放って、場は消沈した。

その時その場にいた全員が、一瞬にして同じことを思っていた。


「チキュウノコウブツってなんじゃぇ?」


するとY氏はまるで、「世界中のみんなが知っているのに、あなたたちだけはそれを知らないのか?」とでも言いたげな、不思議そうな顔で、言った。

「石、隔週で、石が送られてくるやつ」と。


デアゴスティーニを知らない人はさすがにいないと思う。2週間に一度、デアゴスティーニ社より、おまけ付きの雑誌が送られてくる。例えば「週刊フェラーリ」みたいなものだと、毎号毎号フェラーリの概要、詳細、歴史などを記した雑誌と共にフェラーリのプラモデルを構成する部品がひとつびとつ送られてきて、最後まで購入したものは、フェラーリの精巧なプラモデルの完成形を手にすることができるというものである。僕もかつて、『隔週刊 Xファイル DVDコレクション』なるものを定期購入していた時期があり、その節は毎号毎号、Xファイルという海外ドラマの…

お部屋計画。

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来月の中旬に、友達がたくさん遊びに来てくれるのだけども、部屋の現状を目の当たりにすると目眩がする。僕の部屋は今、あまりに散らかっているのである。しかし、1日をかけて完膚無きまで部屋を片付ける体力がないことは以前、証明されている。そこで、今日から当日までの1ヶ月をかけて、ゆっくりと部屋を片付けていこうと思う。

僕の部屋はほぼ正方形と言って良い形をしているので、それを「田」の字形に4分割して、1ヶ月(4週間)の1週間ずつをそれぞれのパートに専念するのである。

ただし問題がないわけでもなく、僕の部屋を「田」の字にした場合、「田」の右下がものすごく汚いくせに、「田」の左下はほぼ掃き掃除で終わるという点である。勢いに乗っている序盤に右下を攻めるのが良いのか、最初は左下を掃除し、右下は最後まで残しておくのが良いのか。

そしてなにより、1ヶ月も集中力が続くのか、そして、前半に片付けた部分を、約1ヶ月間、友人が来るまできれいなままキープし続けられるのか。

そういうことばかり考えてしまって、一向に掃除に取りかかることができないでいる。難儀なものである。



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語り継ぐべき人やもの。

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阪神大震災から16年が経った。
当時、僕は中学2年生で、友人の言葉にハッとしたのだけど、震災前の人生より、震災後の人生の方が長くなった。もちろん、日が経つにつれ、月が経つにつれ、当時の記憶は薄らいでいるし、そもそも僕が暮らしていた街は、神戸市ではあったけれど、被害は少なく、けが人もほとんどでなかった。
だから、震災当時の僕も、学校が休みになったことが嬉しかったし、夜になってようやくつながるようになったテレビが倒れた阪神高速道路を映し出していても、「映画みたいやなぁ」という感想しか持たなかった。

高校に上がり、震災で友人を亡くしたとか、家族を亡くしたという友人が増えたことで、「怖かったんだなぁ」と少し身近に感じられるようになった程度である。

とても中途半端な立ち位置にいると思う。毎年1月17日の午前5時46分に起きて、黙祷を捧げるほど震災に心理的に近いわけではないけれど、神戸に住んでいたものとして、あの朝の突然の揺れは体が覚えているから、被災者ではない人よりは震災に近い。

この時期になると、「リメンバー・阪神大震災」というドキュメントが深夜にずっと流れている。テレビには決まって仏壇に手を合わせる老婆や、息子の遺影に手を合わせる両親が映し出されている。いかに震災が悲惨だったかを、そして残された者の悲しみは今も癒えないということを繰り返し流している。それを見るにつけ、なんだか不思議な気持ちになる。不思議な気持ち、結局は違和感なのだけど。

結局、悲しむ人は、誰に何を言われようと、なにも言われなくても、悲しむし、悼むし、震災を忘れないと思うのである。マスコミが家に来ようが来まいが。
一方で、忘れたい人だっていると思う。震災のことを思い出したくない人もいるだろう。その人が震災を忘れようとしたとして、それを誰が責められるだろうか。

要するに、各々が、各々のやり方で震災を受け止めている。ある人は大切に毎年毎年思い出そうとするだろうし、ある人はきちんと消化しようとしている。外から入ってきた人間がそれをコントロールするべき事ではない。

もちろん、『防災』という意味では、語り継がれなければならないことだろう。でも、それ以外に、義務的に語り継ぐ必要はあるのだろうかと思う。

今年、ついに小学校1年生から中学校3年生まで、全員が震災を知らない世代になったそうだ。そこで、学校は震災についてきち…

伊達直人の不気味。

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最近、往年の覆面プロレスヒーロー、タイガーマスクの正体である伊達直人? 緒方直人? を自称して、施設にランドセルを贈る者が現れ、それに追随する形で矢吹丈やらなんやらが相次いで施設にランドセルを送りつけていて、日本列島津々浦々「こらええこっちゃムード」になっているのが僕にはどうにも気持ち悪い。なんというか、据わりが悪い。その、据わりの悪さについて考えてみたところ、いくつかの「なぜ?」が据わりの悪さの要因になっていることがわかったので、ひとつずつ潰していこうと思う。

幸いなことに、現在の僕には、そういう無為なことに費やすだけの時間は、腐るほどに、ある。

さて、僕が「なぜ?」と思うのは下記の通りである。

1)なぜ、正体を隠すのか?
2)なぜ、ランドセルなのか?
3)なぜ、模倣者が続出しているのか?
まずひとつめの「なぜ正体を隠すのか?」についてだけれど、これにはふたつの仮説が立っている。ひとつは、日本古来の「秘匿する美」に基づいた、無意識的な行動だという説である。「こういう世のため人のため的なことは、コッソリやるべきだし、実名を公表するなんて不粋の極み。調子に乗ってると思われて石礫ぶつけられてもかなわんし」という気持ちから正体を隠しているのではないかという説である。あるいは「こういうことをやるときは、正体を隠すものだ」という思い込みにすらなっているのかもしれない。

もうひとつの仮説は先の説とは相反して、「目立ちたい」というものである。「おいおい、なに言ってんだ、このチンカス野郎、目立ちたい奴が正体を隠すかよ」とお思いの方もあるかも知れないが、どうだろう、本当にそうお思いか?

例えば、茨城県の佐藤和夫さんが近所の施設にランドセルを寄付したとする。そんなものがニュースになるだろうか? せいぜい地元新聞の「人と街〜つながる絆〜」の紙面を埋めるぐらいのものだろう。少なくともテリー伊藤や小倉さんの口上に登るようなことにはならなかっただろう。今回の事件は、3つの要素で構成されている。これは僕の「なぜ?」と合致するけれど、『正体不明の人間』が施設に『ランドセル』を贈り、『模倣する者』が続出している、という事件なのである。

そして、その中でも「正体不明の人間が行った」からニュースになったのである。佐藤和夫さんが全国の施設にランドセルを配っていたとしても、ニュースにはならない。佐藤さんに倣…

渡部陽一への恐怖。

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2010年、テレビ業界を席巻し、一気にお茶の間の人気者になった戦場カメラマンの渡部陽一氏のことは、僕もご多分に漏れず、すごく好きで、ザッピングしていて彼がでている番組を見つけると、つい手を止めてしまうようになっている。
今日も、ザッピングをしていたら、脳科学者の茂木先生監修のクイズ番組に渡部陽一氏がでていたので「お?おもろそやなぁ」と思わず手を止めた。
番組自体はさまぁ〜ずと優香が司会をしている単なるクイズバラエティで、番組内ではインテリ芸人、ロザンの宇治原が3連覇なるか、というのがメインテーマであり、渡部陽一氏もメインで登場と言うよりは、「今、旬だから」みたいな出方をしていた。そんな中、意外に健闘する渡部陽一氏がピックアップされ、茂木先生に脳に関する質問をするという場面になったときの、渡部陽一氏の質問にちょっと冷や汗が出た。



「どうしても、戦場に戻りたくなってしまうのですが、
 これは職業病でしょうか?」

という質問だった。

それを見た時、僕は背中がひやっとしたのである。

なんのことはない、ただのバラエティ番組で、あの木訥な口調にくわえ、画面の下にはテロップがゆーっくり出てきて、完全に『ネタ扱い』されているし、渡部氏がそれを言い終わると、みんな笑い出して「出た、渡部節」という感じになったのだけど、それにもかかわらず、僕の背中はなんかゾゾゾっとした。

「どうしても戦場に戻りたくなってしまう」という、聞きようによってはとても怖い言葉をニコニコした表情とゆっくりした口調で茂木先生に投げかける雰囲気が、正直不気味だったのである。

また、渡部陽一氏自身を見ても、笑顔ではあるが、心から「よくわからなくて困っている」という感じで茂木先生に質問しているような気がした。まるで、自分の中で今は息を潜めている、行動的で攻撃的で、刺激を求める人間性が暴れ出しそうになっていて、それを止められなくて困っているというように見えたのである。そして、その質問を受けたときの、茂木先生は一瞬、張り付いたような表情になったように見えた。なんというか、茂木先生だけは、口調や外面ではなく、渡部陽一氏の質問、困惑の意味をきちんと理解し、その不気味さに「ぞっ」となったように見えたのである。

その後の、茂木先生の回答はこうだった。

「1で生きてきた人間が、100を経験すると、もう100でしか満足できなくなる。渡部さんにと…

火星人マイナスの2011年

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火星人マイナスの2011年の運気
<総合運>
〈乱気〉で苦しみを味わった火星人(-)ですが、〈再会〉を迎えた2011年は、晴れやかな気持ちで過ごせるでしょう。
これまでやりたいと思っていても手が出せなかったことや、やむを得ず中断していたことにもう一度挑戦するチャンスです。
やってみたい仕事があるなら、思い切って異動を願い出たり、企画の提案をしてみましょう。今までと違い、開放感に満ちあふれている2011年は、何をしても生き生きと取り組めるはずです。
そうした姿は、周囲の人の気持ちも動かすにちがいありません。とくに、1月、4月、5月は自分で思っている以上の成果が得られそうです。
火星人は、自分から初対面の人に心を開くことはない一方で、多くの人をひきつける魅力は持っています。2011年はそうした面にも磨きがかかるので、多くの人があなたに接近してくるでしょう。
その目的はさまざまですが、相手の本質を鋭く見抜く力に恵まれているのも火星人の特徴ですから、自分の直感を信じ、付き合いを深める人、そうでない人を区分してください。
また、これまでなんとなく話が合わないと敬遠していた人がいるなら、思い切って話しかけてみましょう。
引っ越しや、転職を考えている人は3月や9月がチャンス。新しい場所で、あなたの今後の人生に大きく影響を与えそうな人との出会いが待っていそうです。思っている以上の成果が得られるのが1月って…なんにもやってへんやんけー、せめて2月まで待ってつかぁさいよぉ。「なんにもやってへんなりに、得たやん?」つって、お隣さんから蜜柑もらってハイ終了、みたいなんイヤやで。今、オレ、大事な時期なんやから。
んで、引っ越しするなら3月かぁ、ここはふむふむです。
<恋愛運>
愛情面も、今までと違って順調です。パートナーの言動にイライラすることの多かった人も、2011年は相手の立場や気持ちを推し量る余裕が生まれ、おだやかな態度で接することができるでしょう。
交際中の人は、足踏み状態が続いていた結婚話が一気に進展しそうです。恋人がいない人は、出会いのチャンスはあちこちあるのですが、問題はそれに気づくかどうか。他の誰かと比べたりすることのばかばかしさはよくわかっているはずですから、自分の心の目でしっかりと相手を見ることです。パートナーの言動にイライラすることの多い一年だったので、2011年に期待し…

火星人マイナスってなんなのか。

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新年明けましておめでとうございます。
一年の計は元旦にありとはよく言ったもので、一年の計を元旦に立てておくと、その一年の自分の行動スケジュールを、全てその「計」に基づいて行うことができるので、ぶれない。人間とはなかなか有機的なもので、「ああしたいなぁ」とか「こうしたいなぁ」と思っていても、直後にすれ違った女の乳がデカかったら、それだけで「グフフ」と笑ろて、今し方、何をどうしたかったのかをいきなり忘れてしまったりする。そういうときに備えて、「計」を立てておくことが大切である。

僕なんかはその辺をきちんとわきまえているので、昨年も一年の計として「平穏無事」をかかげ、一年を平穏無事に送るための様々な作戦を立てて来た。元旦に「計」を建てているので、僕はぶれずに、往々にして、折に触れて「平穏無事、平穏無事」と唱え、それが実現するよう、善処に善処を重ねてきた。
その結果どうなったか。上司からのパワハラは悪化し、心神は耗弱、思いがけないトラウマの発見で、両腕をカッターナイフで切り裂き、精神疾患用薬物の同時大量摂取にて救急車に運搬され、精神の崩壊、現在も職場とは戦争中という、想像を絶するような「激動の一年」となってしまった。なんでじゃ。

一年の計を元旦に立てたというのに、このていたらく、目標達成率2%みたいな状況になってしまったのはなぜなのか、僕は年末真剣に考えた。なぜなら誰も会う人がいなくて、暇だったから。その結果、1つの結論に達した。

「僕はまだ、自分のことについてよくわかっていないのではないか」
ということである。自分自身のことがよくわかっていない分際で、自分自身の一年の計を立てたところで、よくわからぬ自分がそのように行動できるかどうかなどわかるはずがない。慧眼、慧眼。

そうなれば話は早い。
僕は、なんだか忘れたけれど、「火星人マイナス」という人間だという。
細木某という人間が僕をそう定義しているらしい。細木某という人間についてはよくわからないけれど、細木某は、地球人に宇宙人の名とその陰陽を与えることで財をなした傑人だそうで、そこまでの人間が僕を「火星人マイナス」と呼ぶのだから、僕はまぁ、間違いなく「火星人マイナス」なのだろう。「ひろ兄」ならぬ、「火星人マイナス兄」なんだろう。

ということで、細木某のウェブサイトで月額525円というえげつない会費を支払い、「火星人マイナス」と…