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君が代問題について、無理矢理考える。

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前々から、ちらほら聞いてはいたけれど、それにしてはよくわからんのが、世間には君が代を歌うことを嫌う教師とか、君が代を歌うときに立たない教師がいて、それが問題になっているという問題、通称 「Gimme God YO!! 問題」 ではなく 「君が代問題」 である。 僕ももう三十路をええかげん過ぎたわけで、世間を賑わせている問題については、一定程度の知識を持っていて当然と言われる年齢である。しかしながら、この 「君が代問題」 についてはホントになんにも知らなかった。単純に現象として 「君が代を歌いたがらない人間がいる」 ということしか知らなかった。しかし、なにかの事件や事象が起こって、それを説明しなければならないとき、必要な情報は 「なぜ」 の情報である。どういう経緯があって、どういう理由があって、その事件が発生したのかについて説明できなければ、そのことについて 『知っている』 とは言えない。 ということで、手っ取り早く 『君が代問題』 についてWikipediaで調べてみたのだけれど、普段であればWikipediaで調べればどんな問題も即座に明らかになり 「あーよかったなー、あなーたがーいてー」 と花☆花のヒットソングを口ずさみながらまた元の、うだつの上がらない生活に戻れるはずだったのに、今回に関してはWikipediaで調べてみても、よくわからないのである。なんというか、溜飲が下がらないのである。正直、君が代問題について、僕はあまり興味がない。なんというか、おもしろい話ではないので、Wikipediaを斜め読みして終わり、でよかったのに、読みながらも 「えーどういうことー」 と思ってしまったのである。 例えば、君が代を歌いたくない人間の言い分はこうである。 「君が代を歌うと、戦争時代を彷彿とさせる」 お前何歳やねん。お前きっと戦争を知らない子供たちだったはずやろ、戦争時代に生きてないやろ、そんなやつが、1分弱の歌聴いただけで、なんで戦争思い出すねん、どないしてもたんや。 続いてこうである。 「君が代の歌詞は天皇君主制の賞賛であり、それを肯定することはできない」 お前、どんだけ歌詞読みこんでるねん。どこにそんなこと書いてあるねん。 と言うと 「歌詞の至る所に、天皇賞賛の 『比喩』 が隠されている」 と反論してくるが、もう

ほとんどのことはどうでもいいことである。

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昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を 「好き・嫌い」 で分けなくなったというものがある。もう少し正確に言うと、色んな事に 「嫌い」 を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて 「まずい」 とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで 「おもしろくない」 とも言わなくなってきた。 もうなんか、どうでもいいじゃないかという気持ちである。 僕がなにかについて 「嫌い」 とか 「面白くない」 とか 「まずい」 などと言って、誰の得になるだろう、誰か幸せになるのかなと思い始めたのである。それこそ昔は尖っていて 「アンチであることのクール」 みたいなところにしがみつき、 「お前達は全然わかってない、あんなものはクソだ」 などと喚いていた時期もあったが、最近はそういう体力がもうない。というか、そういうことに頭を使うと、疲労がえげつないのである。 元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、 「オレの日記、面白いでっしゃろ」 と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、 「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」 などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。 僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを 「嫌い」 と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を必死になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもう、すんごいしんどい。そして相手が 「わかったわかった、私も嫌うからもう許して」 と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに 「幸せ」 は存在しない。 一方、 「好き」 を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の 「好き」 が深まるのだからある意味で