1.16.2012

君が代問題について、無理矢理考える。

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前々から、ちらほら聞いてはいたけれど、それにしてはよくわからんのが、世間には君が代を歌うことを嫌う教師とか、君が代を歌うときに立たない教師がいて、それが問題になっているという問題、通称「Gimme God YO!! 問題」ではなく「君が代問題」である。

僕ももう三十路をええかげん過ぎたわけで、世間を賑わせている問題については、一定程度の知識を持っていて当然と言われる年齢である。しかしながら、この「君が代問題」についてはホントになんにも知らなかった。単純に現象として「君が代を歌いたがらない人間がいる」ということしか知らなかった。しかし、なにかの事件や事象が起こって、それを説明しなければならないとき、必要な情報は「なぜ」の情報である。どういう経緯があって、どういう理由があって、その事件が発生したのかについて説明できなければ、そのことについて『知っている』とは言えない。

ということで、手っ取り早く『君が代問題』についてWikipediaで調べてみたのだけれど、普段であればWikipediaで調べればどんな問題も即座に明らかになり「あーよかったなー、あなーたがーいてー」と花☆花のヒットソングを口ずさみながらまた元の、うだつの上がらない生活に戻れるはずだったのに、今回に関してはWikipediaで調べてみても、よくわからないのである。なんというか、溜飲が下がらないのである。正直、君が代問題について、僕はあまり興味がない。なんというか、おもしろい話ではないので、Wikipediaを斜め読みして終わり、でよかったのに、読みながらも「えーどういうことー」と思ってしまったのである。

例えば、君が代を歌いたくない人間の言い分はこうである。

「君が代を歌うと、戦争時代を彷彿とさせる」

お前何歳やねん。お前きっと戦争を知らない子供たちだったはずやろ、戦争時代に生きてないやろ、そんなやつが、1分弱の歌聴いただけで、なんで戦争思い出すねん、どないしてもたんや。

続いてこうである。

「君が代の歌詞は天皇君主制の賞賛であり、それを肯定することはできない」

お前、どんだけ歌詞読みこんでるねん。どこにそんなこと書いてあるねん。

と言うと

「歌詞の至る所に、天皇賞賛の『比喩』が隠されている」

と反論してくるが、もう、お前、病院行け。

確かに、君が代の歌詞は意味不明である。きっとそこには多分に比喩が含まれている。しかし、そもそも詩的表現において、『比喩』というのは、受取手の解釈の自由度を保証するものである。発信者は比喩を使った以上、受取手が自分の意思と違う解釈をしたとしても文句を言ってはいけない。もしも自分の発信したとおりの解釈をして欲しいのであれば、比喩のような婉曲表現を使わず、直接、「てーんーのーおーばーんーざーい」という歌詞で歌を始めなければならない。

要するにそこよね。もしも『君が代』の歌い始めが「きーみーがーあーよーおーはー」ではなく、「てーんーのーおーばーんーざーい」だったら、GHQのときに国歌はすげ替えられているはずである。君が代が「天皇君主制の賞賛」なのであれば、そこに一番敏感に反応し、反応すべきだったのは戦後間もない人々であり、2012年の僕たちではないのである。
温故知新、昔の人々、要するに当事者が「それでええ」と言うたこと、戦争を経験し、悲しみに暮れ、死んだり生き残ったりした人々が「君が代については、これでええです」と言うたことを、今のオレらがやいやい言うなよーって思うのです。


大体さ、その、起立しない先生とか、歌わない先生もさ、カラオケ言ってAKB48とか、西野カナとか、忌野清志郎とか、斉藤和義とかを朗々と歌ってるわけだろう? 歌詞なんか気にして歌ってないんだろう? 「それは国歌とは違う」って言うかもしれんけどさ、歌うか歌わないかっていうのは信条の問題であって、それは「卒業式だから歌わない」とか「国歌だから歌わない」程度の問題ではいけないわけで、ベジタリアンは普段から野菜食わないってのと同じ話なんじゃないのかなぁ。

んでさ、卒業式ってなんのためのもの? 誰のためのもの? っていうと、コレは間違いなく「卒業生のためのもの」なわけで、そこに水差すなよな。

国歌だろうが何だろうが、式典というのは、みんなが立つときは立つ、座るときは座る。クリスチャンも、仏教徒も、天理教徒も、創価学会員も、イスラム教徒も、ゾロアスター教信者も、アムラーも、AKBヲタも、無神論者も、天上天下唯我独尊野郎も、卒業生であればみんな立ったり座ったりしてる。卒業式の「式」ってのも、これはたしか神道由来の儀であって、「式」の意味は「日常/通常とは違う空間の創造」だったはず。「1+1=2という『式』があるが、1と1を並べてみても2には見えない。そこで『1と1を加えると2になりますよ』という意味や現象を創造し、全員で信じ込んだり共有するのが『式』である」とか、京極夏彦が言うてた。だからみんな、普段とは違う服装で、会場にも垂れ幕やらなんやらをして、「非日常」を演出する。そして、「式」の完成を創造し、共有するためには、全員の『参加』が必要なのである。

要するに、国歌斉唱のときに立っていない人がいた場合、「式」の参加者は、その人の信仰や信条を斟酌することはない。だって、自分にだって信仰や信条はあるけれど、それよりも「式」の完成』を優先しているのだから。だから、参加者から見れば、起立しない人、歌わない人は「協調性に欠ける」だとか、「私たちの卒業式を妨害している」という程度にしか写らないんだよ。

つまり、経験もしていない戦争を彷彿とさせるだとか、別に迷惑を被っているわけではない天皇に文句言うてるつもりの、自分の必死のパッチの主張は、端から見たら「ちゃんとせぇやー」とか「あいつなんやねん」とか「必死か」程度にしか写ってないし、そのくせその後の打ち上げのカラオケなんかで「らーぶらーぶあーいをーさーけーぼー!」とか言うてたら、いよいよ「お前なんやねん」になるから、君が代ぐらい歌えばいいと思う。

そもそも、日本にいて、生活できている恩恵を少しでも感じているのであれば、君が代歌うことくらい躊躇ないだろう。途上国で生きるか死ぬかの人間が、もしも「日本での生活を保障してあげるから君が代歌ってくれ」って言われたら、めっちゃ必死で歌うと思う。

最後に、僕なりに君が代を超訳してみようと思う。戦争も知らないし、天皇のこともよくわからない僕の超訳なら、問題ないだろう?

『君が代』
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔の生すまで。

超訳:「君と好きな人が、百年続きますように」

ほら、こんな歌、なかったっけ?





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1.11.2012

ほとんどのことはどうでもいいことである。

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昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を「好き・嫌い」で分けなくなったというものがある。もう少し正確に言うと、色んな事に「嫌い」を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて「まずい」とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで「おもしろくない」とも言わなくなってきた。

もうなんか、どうでもいいじゃないかという気持ちである。

僕がなにかについて「嫌い」とか「面白くない」とか「まずい」などと言って、誰の得になるだろう、誰か幸せになるのかなと思い始めたのである。それこそ昔は尖っていて「アンチであることのクール」みたいなところにしがみつき、「お前達は全然わかってない、あんなものはクソだ」などと喚いていた時期もあったが、最近はそういう体力がもうない。というか、そういうことに頭を使うと、疲労がえげつないのである。

元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、「オレの日記、面白いでっしゃろ」と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。

僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを「嫌い」と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を必死になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもう、すんごいしんどい。そして相手が「わかったわかった、私も嫌うからもう許して」と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに「幸せ」は存在しない。

一方、「好き」を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の「好き」が深まるのだからある意味でフェールセーフな作業なのである。

それに、例えば映画を見て、本を読んで、それを「面白くない」と言う人と、「面白い」と言う人がいたとき、どうだろう。どっちが「勝ち」だろう。勝ち負けじゃないとしたら、どっちが「幸せ」だろう。

僕は、「面白くない派」は一生「面白い派」に勝てないという結論を出している。

子供向けの映画を見たとき、「これは単なる子供だましだ」と言う人と、一緒になって泣ける人がいたら、少なくとも後者の方が「得」だろう。だって、僕たち一般人間が、誰に頼まれているわけでもないのに声高に「あんなものは子供だましだ」と叫んだとして、誰が得するだろうか、そいつはなにか得をするだろうか。

僕たちの声は別に誰に届くわけでもないし、ある作品をネガティブに批評したって誰も得しない。「批判」というのはきっと、「批判している自分」に何かしらの価値があって、それを評価してくれる存在がいると信じている人が行う作業なのだと思うけど、特に映画や文学作品を、オレやお前ごときが「批判」したところで、きっと幸せになる人はいない。

というと、「質の悪い作品を見せられて、『これはいいものだ』と洗脳されて、それを唯々諾々と受け入れるのか、お前はアホか」だとか「押しつけられた価値観ではなく、自分で考える力が必要だ」だとか言う人もいるが、まぁ別にそれでもいいけれど、そういう人は「押しつけられた質の悪いものを、悪いと言える力が必要」ということを言いたいようだけれど、「質が悪い」という判断自体がもう、全然主観的だし、下手すれば「ハリウッドだからダメ」的なことも言いかねないし、「押しつけられるのがイヤだって言っても、しょうがないじゃないか」とも思う。そんなに押しつけられたくなかったら、自分で海外に映画を仕入れに行くとか、国内でくすぶってる若手監督を探しに行くとかすればいいのに、結局そういうことはしないわけで、じゃあもう「押しつけられる環境」に別に文句言うなよーどうしょーもねーなと思うし、そもそも、「押しつけられ」ようが、「質がわる」かろうが、それでも尚、そんな環境においても尚、「面白い部分を探せる」ヤツが最強だと思うのである。「自分で考える力」というのは「批判する力」ではない。無価値だとされているものから価値を見いだす能力というのもあるし、そっちの方が救いようがあるんじゃなかろうか。

質の悪い物からも、いいところを見出す、押しつけられた物にさえ「ありがとう」が言える、いいじゃないか、かっこいいじゃないか。

と僕は考える。

例えばある一冊の本を読んだとき、それを「面白い」と言う人と「面白くない」と言う人、どちらが「読み込めている」だろうか。もちろん「読み込めているかどうか」なんて客観的に測定することはできないから、「読み込めているように見える」だろうか。つまりどちらが「楽しんでいる」だろうか。もちろん前者である。

要するに、僕が一冊の本を読んで「全然おもんなかったわぁ」と言った隣で「めーっちゃ面白かった!」と言ってる人がいたとき、僕がするべき事は「あんなんのなにがおもろいねん!」とケンカをふっかけることではなく、「マジで? どういうとこが面白かったん??」と、自分に欠けている情報、自分が読み込めなかった幸せを補完することじゃないだろうか。

それが対子供であったって同じ事である。ついうっかり「子供だまし」と思ってしまっても、子供が「面白かった!」と言うのであれば、「どういうところがよかったのか」を聞くのが正しい姿勢であると思う。

食事についてもそうである。この時代、「まずい料理」なんてものにあまり出会うことはないだろう。「不味い」とは「味にあらず」「味ではない」という意味であるけれど、そんなメシ、なかなか食う機会がない、そんなメシを食える機会に恵まれないのが現実である。食えたときは、むしろ「笑い話」として人々に共有したくなるだろう。つまり「まずい料理」はラッキーチャンスなのである。それ以外の中途半端なものは、どれだけ妥協して評してみてもせいぜい「普通」レベルだろう。「味がまずい食事」なんてものはそうそうないと思うし、飲食店で「まずい」なんて、それは事件である。

以上長々と書いてきたが、要するに、ほとんどのことはどうでもいいことである。そして、自分の評価というものは、別に世界を変えられるわけではない。

だから、もう僕は「好き/嫌い」ではなく「好き」「めっちゃ好き」「美味い/不味い」ではなく、「美味い」「めっちゃ美味い」「面白い/面白くない」ではなく、「面白い」「めっちゃ面白い」で物事を捉えていて、現在とても幸せである。

嫌いな物を人に押しつける時間を使って、好きな物を人に押しつけることができて、幸せである。

できれば、世界中の全ての人が「おもしろくない」と言うものについても、おもしろさを見つけられる人間になりたい。というか、「世界中の全ての人が『面白くない』と言っている」ということが既に面白いんだけども。



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