12.29.2012

芦屋市某町で最も栄誉ある音楽賞、ヒロニー賞2012発表。

Check  
さて、今年もやってまいりました。ヒロニー賞2012の発表を行いたいと思います。
ヒロニー賞は、2012年1月1日以降に僕のパソコンに追加された曲の中から、年間を通じてiTunesおよびiPodでの再生回数の最も多かったアーティストに贈られるという、芦屋市某町における最大の音楽賞です。

受賞資格は下記の通りです。
1)僕のパソコン(iTunes)に入っていること。
2)追加日が2012年であること(発売日が2011年以前でも追加日が2012年以降であれば受賞資格有り)
3)プロ、アマ問わず。

今年も昨年同様再生回数ベスト50に入った楽曲の再生回数を、アーティスト別に集計し、『最も再生された10アーティスト』の発表となります。

それでは、参りましょう。

第10位:Sean Paul 【合計再生回数:84回

『She Doesn't Mind』 /song nominated

《寸評》
ショーンポールって、15年ぐらい前のデビュー当時は「イケメンレゲトン」として鳴り物入りだったのにさ、もう顔パンパンやないのんさ。なんでこう、一世を風靡した人間はおっさんになると顔パンパンになるのかなぁと思って見て気付いたのは、別に一世を風靡しなくても誰もが華麗とともに顔パンパンになっていくという事実と、僕もちっとは顔パンくらいになりたいよなぁという悲哀。
ちなみにこのPVに出てくる女性はみんな細すぎず健康的にセクシーでいいですね。外国ではガリガリのモデルは使うなとか、そういうことを言われ始めていて、いよいよガリガリの人権は風前の灯火。ガリガリの喫煙者なんて、もう河原で暮らせとか言われるようになるのかなぁ。なんか、悲しくなっちゃった。


第9位:Mariah Carey 【合計再生回数:106回

『Hero』 /songs nominated

《寸評》
いくつになっても変わらないことを「三つ子の魂百まで」と言うけれど、やっぱりマライア・キャリーを見ると勃起するっていうか、セックスシンボル的な印象は変わらないままである。たぶん初めてマライア・キャリーを知ったのは小学校だったか中学校だったかのクリスマスソングで、そのときもきっと思春期真っ只中だった僕は勃起したんじゃないかなって思う。その後、別ルートで好きになったエミネムとマライア・キャリーが付き合ったっていう話を聞いたときは、「うほ、なんだか猥淫」って思って興奮しといて、今さら『HERO』って良い曲だよなーって嘯いても説得力ないよね。もうオレの脳内TSUTAYAではマライア・キャリーと朝河蘭は同じ棚に並んでるよ。


第8位:Maroon 5 【合計再生回数:109回

『Payphone (feat. Wiz Khalifa)』 /song nominated

《寸評》
巷間ではドライブデートでマルーン5かけときゃ間違いないみたいな、ホットドッグエクスプレス的神話が囁かれているらしいけど、なんでマルーン5がいいのかといえば、やはり甘い歌声ではないだろうか。声、高いもんね。
女の人は男の人の声に魅力を感じるというけれど、あるときは高い声がいいというし、あるときは低い声がいいというし、どういうことやねんってなって、尋ねてみたら「高くても低くても、顔が気持ち悪かったらNG」っていう人がいて、なんかもうそれって、元も子もないね。


第7位:THE RiCECOOKERS 【合計再生回数:111回

『NAMInoYUKUSAKI』 /songs nominated

《寸評》
SPECの映画版はとてもおもしろかったし、エンディングで渚カヲルばりに登場した向井理のミステリアス感もよかったから早くみたいけど、公開が2013年秋ってなってなんか最近、平気でいろんな情報が半年後とかだいぶ先で、そういうときにいつも思うのが「果たしてオレは、生きているのだろうか」という恐怖である。
やはり儚くて朧気な身体携えて生きていると、常に死生観と隣り合わせで呼吸していく羽目になって、「明日死んでるかも知れない」という可能性がわりと五分五分感もって襲いかかってくる。もうちょっとマッチョで「200年後も生きていそう」とか言われたいなぁって一回思って、「神様ウソです、今のは聞かなかったことにしてください」と空に叫んで。


第6位:Owl City 【合計再生回数:158回

『Good Time』 /songs nominated

《寸評》
アメリカでは今年「オオオオ・オ・オ・オ・オー」的なサビの曲が3曲ぐらい流行ったらしいけど、それって剛胆だよなぁと思う。だってさ、さすがにパクり感満載過ぎるじゃないか。その中でもこの曲はやっぱり今年一番のサマーソングだったんじゃないかなぁ。
それにしてもPVを見ていると、このおっさんがOWL CITYなのかな?わかんねーけど、ただの係長やないか。2013年は隣で良い味出してる女の子に注目したいところだけれど、誰なんだろうね。最近そういった小さなことを細かく調べていく熱意っていうものがどんどん失われていて、もう死ぬのかなぁって時々思うんだ。


第5位:Nicki Minaj 【合計再生回数:249回

『Starships』 /songs nominated

《寸評》
昨年4位のニッキーが今年もランクインで、もう3年連続ぐらいになるんじゃないかなぁ、つまりこれって自分でも気付かないうちに恋していたということになるわけで、そういうのって高校時代とか、あったよね。
ある特定の女子と喋ってみると、なんだか胸がざわついて、いつもならドッカンドッカン笑いがとれるはずなのに、この人の前ではうまくいかなくて、違うんだよ、僕はもっとおもしろいはずなんだよって言ってる間に歳月が過ぎてその子は同じ学年の瓜生と交際を始めて、なんじゃそれ、瓜生なんてただ単にオシャレでラグビー部のキャプテンなだけやんけ、オレボロ負けやんけってなって、初めて作詞作曲とかしたよね。


第4位:BUMP of CHICKEN 【合計再生回数:275回

『オンリーロンリーグローリー』 /songs nominated

《寸評》
小難しい音楽を聴いていたらかっこいいと思う時期はとっくに過ぎ、その間に忌避してきた音楽に触れてみるともうめっちゃかっこよくて、僕はなんだろう、ある一定の期間ずっと美味くもない高価な食材を「これは高価だから美味いはずだ」と言って食い続けてきたんだなぁと思うと虚しくて切なくて心細くなるよね。バンポブチケンはかっこいいし声もいい。けど歌詞は恥ずかしい。僕が洋楽を好んで聴くのは、歌詞が恥ずかしくないからと言うか、英語がわからんので、恥ずかしくても恥ずかしさに気付かないからだと思う。Fall out boyなんか、絶対に歌詞は恥ずかしいと思うもん。


第3位:RADWIMPS 【合計再生回数:308回

『シュプレヒコール』 /songs nominated

《寸評》
いつになったらRADWIMPSを卒業するのかなぁと思うよ。もう病気だよ。


第2位:ASKA 【合計再生回数:695回

『いろんな人が歌ってきたように』 /songs nominated

《寸評》
輪をかけて「いつになったら卒業するのかなぁ」と思うし、「もう卒業できないのかな」とも思うのがASKAで、去年も今年も結局2位って、やっぱ好きなんやなぁと思うけれど、今回発売されました『SCRAMBLE』というアルバムは、これはもう素晴らしかったですよ。どの曲も最高でしたよ。ただ☆をつけろと言われたら4つしかつけません。

というのもね、なぜだかこのアルバムは初回限定とかそういうこと関係なく、すべてのCDがBlu-rayとセットでお値段4,500円つって、なんという強気。強い気持ち。でもまぁ僕自身PVを見るのは好きですから、じゃあどういうPVなのか見せてくださいお願いしますっつって見てみたら、透けるか透けないか微妙なワイシャツに袖を通した五十路のASKAが歩きながら歌い続けているというだけのPVでその一部始終がBlu-rayクオリティなため肌の質感とかも素晴らしく映し出されていて、それを1本見終わって僕は「こんなもん、誰が見たいねん」って思いました。ファン歴20年超の僕でも理解できなかったです。


さて、2位までを長々とご紹介してきましたが、ついに栄えある第1位。
つまりヒロニー賞2012の発表です。

今年1年、ひろ兄が一番たくさん聴いたアーティスト、第1位はこちらです!


第1位:YUKI 【合計再生回数:806回

『2人のストーリー』 /songs nominated
《寸評》
YUKIはいいよね─って、みんなとっくに言ってるね。


ということで、今年のヒロニー賞2012はYUKIが獲得しました。

皆さんはどうですか? iTunesで音楽管理をしている方は、スマートリストを作成し、『追加日』『2012/01/01』より『後』である」『メディアの種類』『ミュージック』である」、選択方法を「再生頻度の最も高い項目」としてみてください。今年一年を振り返るのに良いかもしれませんよ。



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12.21.2012

Jack in November

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毎年11月11日、神戸市中央区の歓楽街、三宮のとあるクラブで大規模なブラックジャックの大会『Jack in November』が開催される。

ブラックジャックはトランプを使った有名なカードゲームでルールは様々あるが、まぁYouTubeの動画なんかでどういうゲームかは確認してもらうことにして、この大会では二人の人間が毎回ディーラーとプレイヤーとに分かれて1対1で対決することになる。Jack in Novemberでは、クラブ内の至る所に並べられたテーブルを使って、いや、別に床でもいいしトイレでもいいのだけど。とにかく至る所で参加者がゲームを行う。

この大会のルールは下記の通り。

○勝者は、敗者から「サイン」を受け取ること。(参加者の中で「サイン」が一番多い人が優勝)
○敗者は、勝者に1度だけ再戦を要求できる。
○再選を要求された勝者は断ることはできない。
○初対決でのディーラーとプレイヤーはじゃんけんで決める。(勝った方がディーラー、負けた方がプレイヤー)
○2度目の対決では初戦の勝者がディーラー、敗者がプレイヤーとなる。
○同一相手との3回以上の対決は禁止。

大会は20:00に始まり、22:00で終了する。対戦は誰かに声をかけることから始まるが、ルールの通り、たくさんの「サイン」をもらわないと優勝できないため、優勝を目指している人たちは我先にと弱そうな人間に声をかけ、カモにしていく。しかし同一の相手との3回以上の対決は禁止されているため、大会時間が2時間ともなると、結局広範囲の参加者と対決しなければならない。優勝者には賞金21万円が与えられる。

優勝者以外には別段特典も副賞もあるわけではないので、一部、優勝に向けて血眼の参加者もいるが、だいたいの参加者は単純にブラックジャックを楽しみにきているだけ、もしくは別の目的で参加している人も多い。

同一の相手との再戦が2回までとされるルールは、この大会が『社交場』としての機能を果たし始めてから追加された。少しでもたくさんの人と対戦できるように、要するに、カードゲームをしながら、知り合いを増やしていくという楽しみ方もできるのである。異業種の仕事に従事する知り合いを増やしたり、単純に友達を増やしたり、あるいは男女の出会いの場として利用している者もいる。

僕はひょんな伝手でこのイベントについて知り、そして今ここにいるのだけど。

「めーっちゃおもろい、めーっちゃおもろい」

友人というか知人というか、顔見知りというのも恥ずかしい関係の人間、加藤時生はさっきからその科白を繰り返していて鸚鵡みたいだ。バカが露呈している。バカは露呈しているけれど、あまりの勝ちっぷりにもはや、ホールの注目の的と言っていい。

「かけるぅ、まじたまらんわ。こんなおもろいイベントなんで教えてくれへんかってん」

時生が顔を仰ぐのに扇子代わりに使っている『名簿』にはもう、40人以上の「サイン」が書かれている。開始1時間で圧倒的な勝率、ものすごい勢いで次から次へと負かせていく姿は確かに清々しいし、かっこいいと言えなくもない。けれど、そうは言いたくない。コイツをかっこいいと言ってしまったら人生負けのような気がする。

「じぶん、すごいなぁ、やるなぁ! まだ高校生なんちゃうの?」

声をかけてきたのは頭の先から足の先まで完璧なオシャレ。僕はまだこの人の足もとの爪先にも及んでないなぁとまざまざと見せつけられるような「ザ・大人の男」だった。
オシャレな帽子をオシャレな角度でオシャレにかぶった、オシャレな男の人は、片方でオシャレな女と手をつなぎながら、もう片方の腕で時生の肩を抱いて「どうやったら勝てるか教えてーや」と、そんなことを言ってしまうから、時生はもちろん調子に乗って、「じゃあそこのねーちゃんとやらせてくれたら教えたるわ」と、こう返すから、お兄さんが血色ばって一触即発、その瞬間に「ブラックジャックで勝負しようや、今日はそういう日やろ?」と調子に乗る時生に対して、やっぱり雰囲気的にこういう場所で、勝ってるヤツに因縁をつけて暴力を振るうようなことが一番かっこ悪いことを知っている、かっこいいことに敏感なオシャレなお兄さんは、誰かが噛みつぶした唾液まみれの苦虫を無理矢理口に入れられて、さらに噛みつぶさせられたような顔面になって、結局時生の申込を承諾。

んで、あっけなく負ける。


「ちょろいなぁ」


つって時生はふいにお兄さんの足に、自分のたくましい足を引っかけて、思い切りすくい上げる。お兄さんはすっ転ぶ。ブラックジャックでも勝てないお兄さんは、きっとケンカしても時生には勝てないだろう。時生は180センチを超える長身と、日本人離れした体格を誇っている、いかに高校2年生と言えども真正面から相手取って勝てる人間ではない。ケンカでも、ブラックジャックでも。結局、オシャレに敏感で、連れている女の前でもめちゃめちゃかっこつけたかったはずのオシャレなお兄さんは、アルコールだのジュースだの、あるいは唾や痰などでベタベタになった床にひっくり返って、オシャレな服を汚して沈黙している。

その脇を、時生はゆっくり抜けていく。

既に優勝を諦めたり、初めから優勝する気がなかった人たちの興味はもはや時生に集まっている。連れてきてよかったのか、連れてこなかったらよかったのか。学校でこの大会について口を滑らせてしまって以来、後悔がずっとぐるんぐるん渦巻いているのだけれど、まぁ時生に言わずに参加して、あとでばれたら何されるかわからなかったし、これでよかったんだ。

んでまぁ、十中八九、この大会は粗暴な時生に牛耳られて、蹂躙されて、もしかしたら今回で最後になってしまうかもしれないけれど、まぁそれも仕方ない。時生なんだから。

つってたら、時生が立ち止まっていて、その目がまっすぐ前に向けられていて、口角が上がっていて、要するににやにや笑ってなにかを見ているっていうか、そういう顔で時生が見る対称というのは、女だ。

加藤時生のことは嫌いだけれど、加藤時生に助けてもらったことも何度もあるし、もうずぶずぶの関係だから逃げ出せないこともわかっているし、隣で大人しく、ときどきこうやって遊びを提供したりしていたら、自分の学生生活は安泰だし、そういう状況にも慣れてきたけれど、唯一慣れないのが、時生の女性の扱いだ。

まさに鬼畜。

目をつけた女に徹底的にアプローチをかけ続け、んでまぁ時生は体格もいいし男前だし、フットワークも軽いから、わりと多くの女が時生に落ちる。んで手に入れた女を、時生は、それはもうむちゃくちゃに扱う。レイプ。暴力。パシり。金づる。時生の元カノで、まともな人生に戻れた女を僕はまだ知らない。

そんな時生が久しぶりに「あの目」になって、女を凝視している。時生の視線の先にいる女性は、あぁ、確かに時生の好きそうなタイプだ。清潔感というか透明感というか。人なつっこそうな笑顔、黒髪、華美な装飾がまったくない、「純粋」といった感じの女だ。そういう女ほど潰し甲斐がある。「あぁ、こらダメだ」と思った。僕から見たって魅力的だなぁと思うほど、その女性は確かにいい雰囲気を持ってしまっていた、残念だ。

時生に目をつけられた女性は、両手にグラスを持って歩いて行く。その先には、わりと長身の男がブラックジャックを楽しんでいた。

「男連れかぁ」

時生は「申し分ない」といった表情を浮かべると、そのままつかつかと二人に近づいていく。男はちょうどゲームを終えたらしく、相手からサインをもらっているし、一瞬見えたその『名簿』には、時生ほどではないにせよ、かなりたくさんのサインが並んでいた。

「すみませーん!」

時生が不必要に大きな声を出した。みんなからの注目を集めるための大声だ。僕は時生から少し離れて、肉食獣が草食獣をむさぼり食うシーンを眺めることにした。

男は「なに?」と振り返る。女性はそこに寄り添っている。

「ゲームお願いします!」

その一言で、既になんとなくわき上がるほど、時生の勢いは既に会場を巻き込んでいる感があった。

「いいよ」

男は快諾した。なんだか不気味な雰囲気だった。全身黒ずくめで、伸びた前髪が目と表情を隠しているけれど、肌は正反対に白い、青白い。そして線が細い。背が高くなかったら、絶対にいじめられてるな、時生に。と思った。

リストにそこそこの名前を集めている黒い男が時生の対戦申込を受けたことで、ほぼ会場中の注目が集まる。これはよくないよ、お兄さん、逃げた方がいいよ、嫌な趣味が始まるよーと、僕だけが思う。そして時生はいつも通り、趣味の悪い科白を吐くのだ。


「せっかくだから、そこのおねえさんを賭けて勝負しようよ。おねえさんを守りたければオレに勝たなければならないってことで」


その言葉に会場が湧いた。なんだかおもしろそうだなーというだけのことだけど、淡々とブラックジャックを繰り返す中で、突如発生したイベント。それだけで会場は湧いてしまう。

時生の趣味のひとつに、「年上の男に恥をかかせる」というのがある。過去になにか嫌な思いでもしたのか、さっきのオシャレなお兄さん然り、自分を年下に見下してくる男に対して、恥をかかせるという、なんとも趣味の悪い趣味が彼にはある。

今回もそうだ。ブラックジャックの大会で、ブラックジャックで女を賭けさせる。「賭けにのらないのはノリが悪い」という雰囲気を作っておいて、男に断る機会を与えない。そしてブラックジャックで勝つ。時生は勝つ。そうすると負けた男は、「冗談だよな?」という愛想笑いで時生に握手を求めたり、必死に「今の一連はジョークです」というムードを作ろうとする。けれど時生はそれに一切取り合わず、例えば男を投げ飛ばしたり、いきなり引き寄せた女をそのまま連れて行ったりする。時生はそういうことが好きなのだ。

時生が賭けを申し出たことで会場は湧いた。一旦こんな風に湧いてしまうと引くに引けなくなるのは男の方だ。ここで「いやだ」と言えるような雰囲気はもう既にないし、彼女の前でそんなかっこ悪い姿は見せたくないのが性だ。さっきのオシャレなお兄さん同様に。

だから、彼は引き受けるしかない。

だが引き受けたが最後、彼はきっと時生に負ける。まさに降って湧いた災難。いきなり彼女をわけのわからん年下高校生に持って行かれるんだから。そしてその後、むちゃくちゃに蹂躙されて返品される彼女の心の傷を背負いきれなくて、男は彼女を手放して。彼女の人生は終わるのだ。可哀想に、僕にできることは何もない。せめてあんまり関わらないことくらいだ。


「いやだ」


黒い男は普通にそう言った。だから聞き間違いだと思った。けれどはっきりとそう言った。あーやっちまったーと思った。実際、周囲も「え?まじ?なに言ってんの?」みたいな雰囲気、「空気読めよなー」みたいな雰囲気になった。

時生はその雰囲気を味方につけて、「ちょっとお兄さん、そりゃないよ。なにかっこ悪いこと言ってるの? 男なら、勝負を受けて女を守れよー、なぁ!」といって周囲を盛り上げる。「そうやぞー!」とか「びびってんのかー!」とか「情けないぞー!」とか「彼女かわいー」とか「オレにもやらせろー」などの言葉が次々と上がる。それに一層ご満悦の時生である。

もうなんか鬱陶しいわぁって思うけど、僕は思うだけで拍手とかしちゃうんだ。


「男?」


圧倒的逆風に吹かれながら、黒い男はそう呟いた。なんとなく昂揚している会場のざわつきの中で、不思議と黒い男のつぶやきは地面を這うように遠くまで届く。男はそう呟いて、そして笑った。


笑った。


「あ? こういう空気のときに勝負断るってのは、男としてどうかと思うなぁっちゅう話やろが」

「自分はなにも賭けないくせにか?」

黒い男はそう言って時生を見据えた。長い前髪の後から、なんだか冷たい眼光が時生を「見下し」ている。

「自分はなにも失わないで、相手から奪うだけのキミが、オレに『男』を語るかね、キミ、ださいな。なに?高校生?」

黒い男はやはり笑った。その言葉で場内が沈黙する。時生も相手の意外な反応に戸惑っているようでなにも言わない。いや、怒りが渦巻き始めているように見えて怖い。

黒い男の真っ白な顔に、大きな瞳。全体的に色素が薄い彼は、薄暗い照明の中でまるで亡霊のように不気味に浮いて見えた。

「別にゲームをしないなんて言ってないだろう?けれど条件がおかしすぎるとは思わないか?オレは負けたら彼女を失う。勝ってもなにも得ない。でもキミは負けてもなにも失わないくせに、勝ったらオレの彼女を手に入れる。こんな条件で誰が勝負してくれると思ったんだ?マジで言ってるのか?童貞なのか?」

僕は驚いた。

確かにそうだ。っていうのは「童貞なのか?」に対してではなくて、確かに黒い男の言うとおりだってことなのだけど、いや、確かにそうなのだけど、このときのこの雰囲気の中、圧倒的逆風の中でその空気に飲まれることなく、冷静に「勝負の不平等さ」に気付き、言及するなんて。

これまで僕は時生のこういう『遊び』を何度も見てきたけれど、そういえばそうだと今初めて気付いたぐらいなのに。

それなのに、突然目の前に身体の大きな男が現れて胴間声で「彼女をよこせ」と言ってきたら、普通は焦るはずなのに、少しは焦って、そして判断が狂うはずなのに。勝負にのらなくても、狼狽えてかっこ悪い姿を見せるはずなのに。

けれど、黒い男はそういった戸惑いを一切見せずに、時生と真正面から対峙した。

僕はそこに驚いた。


「キミにも賭けてもらおう」


男は不気味な笑みを浮かべたまま、時生に近づいていく。

「上等や。なに賭けんねん」
「まず現金で50万円」

男があっさりとそう言うので、会場がざわついた。

「ふざけんなよ」
「ふざけてないよ。オレはキミの遊びに付き合ってやろうって言ってるんだ」

時生の大声を、小さな声が抑えつける。

「ほなあれかい、自分の女を50万円で売るんか。ろくな男ちゃうなぁ、自分の女に値段つけて、それがたった50万円って」

無理矢理話の矛先を変えようとした時生を、しかし男は逃さなかった。

「妥協だよ、20億でも足りないくらいだけど、そんなこと言ったらキミがしたがってるゲームができないだろ? キミ程度なら50万円かき集めるのが精一杯だと思って、こっちは泣く泣く妥協してる。オレが自分の大事な彼女を泣く泣く50万円程度で評価してるのに、キミはそのたった50万円も用意できないのか?そんなことはないよな、高校生。さっさと飲めよ」

黒い男の声はゆっくりと淡々と、でもしっかりと時生に近づいていき、体中に絡みついているように思える。


時生が、押されていた。


こんなの初めてだった。しかしもちろん言われっぱなしの時生ではない。すぐにいつもの飄々とした表情を取り戻す。

「オレが50万を用意できへんとか、そない思って安心したな?残念やな。そんぐらいの金ならすぐに用意できるねん、ほな勝負しよ」

話は終わりだ、と言うように時生は両手を広げる。高校生の仕草には見えない。

「よし、じゃあ次にキミが今現在持っているものを全部賭けろ。家にあるもの、今身に着けているもの、キミが所有してるものは全部だ。服、雑誌、CD、財布、鞄、時計、診察券、保険証、TSUTAYAの会員証、バイクの鍵、携帯電話、教科書、シャーペンの芯まで。キミの所有物を全部賭けろ。あと今ここで全裸になれ」


「おい!ふざけんな!なんやそれ!なに条件増やしとんねん!」
「ふざけてなんかいないし、増やしてなんかいない。六楼さん、オレ、なんて言いましたっけ」

黒い男は時生から目を離さず、周囲の誰かに問いかけた。二人の様子を見ていた人たちの中で、すらりと背の高いオシャレな六楼さんであろうお兄さんが笑って、『まず現金で50万円』って言っただけだね」と答えた。

「キミが勝手に50万円の部分だけ聞いて盛り上がってただけだろう?オレの話はまだ続いてた」
「そんな無茶苦茶な賭けがあるかっ!」

時生は黒い男の胸ぐらを掴み上げて、恫喝する。威嚇する。

けれど、まるで、揺らがない。

「じゃあ辞めるか?」

男は大きな時生に胸ぐらを捕まれているというのに、一切動じることなく話し続ける。声のトーンも低いまま、小さいまま。けれど全員に聞こえるような奇妙な雰囲気で、まるで全員が黒い男のテリトリーにいるような錯覚に陥りそうなほど、その雰囲気には力があった。

「オレの彼女がほしいなら、50万円払え。挑戦料だ。破格の。そしてキミが今現在所有してるものを全部賭けろ、今持っているもの、今身につけているもの、今家にあるもの、全部だ。一切合切を賭けろ。そしてその場で全裸になれ。それで晴れて勝負の開始だ。負けたらキミからは全部なくなる。まだ実家があるだけいいだろう。オレはどっかの行軍と違って家族には手を出さないからな」

その言葉に、六楼さんと呼ばれていた男がなぜか笑った。

「いいか、それでもこれは妥協だからな。それと、最後に当たり前のことを言っておく」

黒い男が話し続ける。

「このゲームは飽くまでオレとキミとの対決。そもそもオレの彼女には関係ない。だからもしキミが勝って、キミが彼女を手に入れる権利を得ても、そのときに彼女が嫌がった場合はもちろん諦めろ。乱暴なことをするようなら、こちらも遠慮はしない」

男はいつの間にか時生の手から離れて、時生を真正面から見据えていた。

「要するに、オレが勝ったらキミの持っている全部を手に入れる。キミが勝ったらオレの彼女に告白できるってルールだ。そういうことでよかったらぜひ、ゲームをやろう。キミは『男』なんだろ?」

会場は既に冷めていた。時生のおもしろそうな提案が、黒い男の説明で、なんだかずるいってことがわかって、そこからは素っ頓狂な取引になっている。雰囲気はおもしろかったし、自分に害がないところだから無責任にみんなが時生のゲームに乗ろうとしていたけれど、ネタ明かしをされた今、会場は冷めていた。そして時生は今、黒い男に籠絡されて、流れは黒い男に向かっている。そうなれば周囲の興味はあっさりと移る。不気味なものだ。


しかし、時生はそんなに大人じゃない。だからこそややこしいんだ。ブラックジャックで勝ち続けているのは、まぁなにかしらのイカサマだろうけれど、こいつの本分は単純に「暴力」だ。駆け引きなんてものは必要ない、腹が立ったら、腹が立った相手を殴りつける。再起不能になるまで殴り続ける。それが加藤時生の本分だ。

「なんだよ、もう終わりかよ。これだから子供の相手はゴメンなんだ」

黒い男はそう漏らした。絶妙のタイミングで。
まるで挑発するように、まるで自分を殴らせようとするために。


時生は一歩で殴れる距離にいた。

だからその一歩を踏み込んだ。


振り上げた拳を、黒い男の顔面に、力任せに叩き付ける、その残像が見えたような気がするのに、拳を後に振り上げた時生は変な体勢のまま固まった。時生の腕をより太い腕がしっかりと掴んでいた。時生の脇にはいつの間にか知らない男が立っていた。

時生よりももっと大柄で、時生よりももっと屈強で──それは強かった。

一瞬で時生の腕をひねり上げる。あの時生が全く抵抗できていない。強い男は時生の足に、自分のたくましい足を引っかけて、思い切りすくい上げる。時生はすっ転ぶ。アルコールだのジュースだの、あるいは唾や痰などでベタベタになった床にひっくり返って、さっき自分がオシャレなお兄さんにしたことを全く同じようにされて、驚きのあまり目を見開いている。

しかし強い男は時生に手をさしのべて身体を起こしてあげる。体勢を立て直す機会を得た時生は素早く後ろに下がって、なんとなくだろう、キックボクシングの構えをとった。それはブラックジャック大会の会場の中でとても異質で、とても浮いていて、正直「珍妙」、つまりとてもダサかったけれど、そうせざるを得ないぐらい、直感で危機に瀕していることがわかる。

強い男は「へぇ、キックかぁ。デカいのになぁ」と笑って、笑顔のままどんどん時生に、時生の間合いに、なんの躊躇もなく入っていく。なんなんだこいつ。

たぶん時生は完全に無駄のない、絶妙のタイミングで強い男に殴りかかったと思う。しかしその拳は強い男に当たることはなかった。強い男は小さな動きで身体をひねると、まるですれ違うように時生の横を通り抜けたように見えた、けれどたぶんそのとき「なにか」をしたんだと思う。時生の身体をなでたようにも見える。結果、時生は突然、糸の切れた操り人形のように脱力し、その場にずさんと崩れ落ちた。右肘があり得ない方向に曲がっているし、右足が股関節のところから真横に伸びて折れている。

けれど悲鳴は聞こえなかった。
すでに時生は気絶していたのだ。

圧倒的に強い男、要するに高校生レベルでは話にならないほど強い男はその場にしゃがみこむと、乱暴に時生の服を脱がせ始めた。ジャケットを脱がせて現れたシャツの、両腕にはトランプが数枚仕込まれていた。

「イカサマはっけーん。全裸でやってたら伊月には勝たれへんかったやろなぁ」

強い男がそう声を上げる中、主催者側の数人が駆けつける。

僕は少し離れたところで見ていた。頭でも身体でも完全に敗北し、気絶したまま運ばれていく加藤時生を僕はただ黙って見つめていた。時生が負けた、そう考えてみてもなんの気持ちも沸かない。胸の中が冷めていた。


会場に目を向けると、黒い男と強い男が話をしていた。ふたりは知り合いらしい。強い男の登場に会わせて、黒い男が時生を挑発したようだ。スタッフが何人も頭を下げていて、そして封筒を手渡すのを見た。そのときはどういうことなのかわからなかったけれど、後々僕が知るのは、あの二人は単なる客だったわけじゃなくて、今回のイベントでイカサマを働く時生のような人間を見つける仕事を任された、いわゆる「便利屋」の人間だったらしい。

手にしている自分のトランプを見つめながら思い出すのは『ブラックジャック』の由来。

ブラックジャックで一番強い数字の組み合わせは『21』だけど、その中でも特に、最初に配られたカードが『スペードのエース(11点)』『ジャック(10点)』だった場合に、高い配当をつけるようにしたことからこのゲームはブラックジャックと呼ばれるようになったという説がある。

手元でカードを広げ、52枚のカードの中からスペードのエースとジャックを抜き出して眺めてみる。

差し詰めあの強い男は『スペードのエース』、刹那で殺す、一瞬で決着をつける剣みたいな存在。

そして、あの黒い男は『ジャック』『ジャック』には本来の「召使い」といった意味の裏に、「悪党」とか「ならず者」といった意味もある。弱そうに見せておいて、実はしたたかに頭脳的に周囲をやりこめていく。

二人のそんな雰囲気がトランプの意味とぴったりだった。

そして僕は直感的に思っていた。なんとなく、ああいう人とは仲良くなっておいた方がいいなと。いつものように、これまでそうしてきたように、一番被害の少ない場所である程度楽しみながら世の中を渡っていくために、そして今日わかった。高校レベルというのがあまりにも陳腐で意味がなく、今目の前の二人のような『大人』こそ、これから自分が付き合っていくべき人間なんだと、直感でそう感じた。

だから二人に挨拶に行こうと思った。知り合いになってもらおうと思った。持たされていた時生の鞄をベタベタの床に捨て、トランプをポケットにしまって顔を上げ───


目の前に『ジャック』が立っていた。
伸びた前髪の向こうからまっすぐに僕を見つめている。



「キミは安全な場所から見ているだけでなにもしないんだね。あのお友達とキミ、どちらが腐ってるんだろうね」



時生にだって笑いかけていた『ジャック』の、冷え切った両眼に鋭く見据えられた僕は、気持ち悪い愛想笑いを貼り付けた顔面のまま動けない。胸の奥で自分の心臓がでたらめに鳴っているのが聞こえるだけで動けない。

『ジャック』はそんな僕の脇を影のように抜けていった。




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9.21.2012

飽食の新時代。

Check  
今度は河村さんのお母さんと3歳になる娘さんがぐちゃぐちゃに潰されて火で熱せられて完全に固まってしまう前に炊きたてのボルボラをよそった丼に載せられて『親子丼』として客へ提供されていった。河村さんのお父さんは北田さんのところの12歳になる息子さんとぐちゃぐちゃに潰されて火で熱せられて完全に固まってしまう前に炊きたてのボルボラをよそった丼に載せられて『他人丼』として隣の客へ提供されていった。

北田さんのところのご主人は肛門に炊く前のボルボラとその他食材を詰め込まれて腹がパンパンになった状態をオーブンに入れられて、全身まんべんなく焼かれて焦げ目が付いたあたりでパーティー会場へ運搬されていき、シェフ自ずから客前で北田さんのところのご主人を器用に捌いて見せて客は舌なめずりをした。その隣では漁師が河村さんのところの9歳の息子さんの解体ショーを行いパーティーを盛り上げた。ちなみに北田さんのところの2歳になる娘さんは輪切りにされて骨付の状態で熱した平鍋の上に並べられ、赤い色をしたアルコホールを高い位置から落とされると平鍋のアルコホールは引火し、娘さんの肉片は豪快な青色の炎に包まれた。この瞬間、場内は一層盛り上がり、大量のカメラのフラッシュが眩しく瞬いた。

要するに河村さんとこと、北田さんとこは全滅した。

場所を変えると小岩井コーポ全24戸在住の成人女性は全員大きな小屋の中で各自柵に入れられていて、両乳に漏斗状のメカを装着されている。漏斗状のメカはホースで大きなタンクにつながっており、定時になるとタンク内の気圧がゼロ、真空になるから自動的かつ乱暴に搾乳が始まり、その時間になると小屋は悲鳴で溢れかえる。ちなみに小岩井コーポの男衆は捌かれて冷凍室に保管されていたけれど、その中の1体からややこしい病原体が発見されてしまい全体始末された。

かつて鯖沼ダイビングスクールがレッスンを行っていた海には鋼鉄糸の網で生簀が作られており、明日は大量のダイバーたちが引き揚げられる予定だ。その模様をテレビクルーが取材しており、活きのいい長嶋さんを漁師がその場で捌く。ウェットスーツを器用に剥がして内臓を取り除き、潮水でさっと洗ったものをレポーターがそのまま食べる。レポーターはおもしろコメントに定評があるから、長嶋さんを食った感想を笑いたっぷりでお送りするだろう。長嶋さんはかつては某広告代理店の管理職であった。客室乗務員を口説いて結婚し、子供は3人。愛人2人に隠し子1人がいたが、皆食われた。長嶋さんが最後のひとりであったが、その死に方は結局、さっさと捌かれて、海水で雑に洗われて、下品なレポーターの汚い口腔に一瞬で吸い込まれるという悲しいものだった。

D市では全員が捕獲され、無理やりドングリばかりを食わされ、ある程度肥えた者から順番に屠殺された。その肉は一時期大人気となったが、今は下火となってしまい、ドングリばかり食わされて頭のおかしくなった元住民が行き場を失い深夜になると元街にでて月に向かって吠え続けているらしい。D市の上岡市長は住民を提供することを条件に最後まで生き延びたが、逆に生き延びてしまったせいでドングリ肉の人気が落ちたあと、口腔から肛門に鋼鉄棒を貫かれて焚き火の上でくるくると回されながら丸焦げにされて絶命した。

ある地域で山田さんたちが食われていて、それを外の地域の住民たちが批判している。曰く「山田さんは頭がいいのに食べるなんて残酷だ」とのことであるが、その地域の住民たちは別の地域の住民たちが白川さんたちを食うことについて批判。「白川さんは食べ物ではない、ペットだ」との言い分である。

とある学校では命の大切さと食べ物のありがたさを学ぼうということで、一人の宮崎くんを飼い、それを皆で育ててある程度育ったら屠殺して皆で食うかどうするか決めようという授業が行われ、それが注目を浴びて映画化されることになった。その宮崎くんは両親を目の前で捕獲されたが、まだ幼いのを理由に別の施設に連れていかれた、3歳の男の子である。最終的にこの宮崎くんを食うべきか食わざるべきか、クラスの意見はふたつに分かれて様々な議論がなされたが、結局宮崎くんは屠殺されて食われる。担任教師は「子供たちが命について考えるいい機会になったと思う」と胸を張り、翌年著書を出すことになる。

夏は暑くて食欲が湧かないから元気も出ないということで、木村屋は精力増強に効果があると謳い、木村さんの蒲焼を売る戦略に出た。客前で木村さんの眼球に鋭利な串を叩きつけてぬるぬるする木村さんの身体を固定し、器用に捌いていく様子はさすが職人である。ちなみに先日入荷された木村さんは実母を介護施設へ送り届けた帰り道に捕獲された。木村さんの実母は施設ごと捕獲されたが鮮度が低いということである者は捨てられて残りは桜の木片と共に長時間燻されて燻製にされた。

北国では幼稚園が相次いで襲われ、園児たちは皆、生きたままの状態で踊り食いにされた。食べた者は「口の中で動く!」と、稀有な体験を興奮気味に話し、踊り食いは一躍大人気となった。

10月第一週日曜日は塩谷猟の解禁日である。武器を持った者たちが山に踏み入り塩谷さんを撃ち殺しては、その場で捌いた。また、中には街へ出て暴れる塩谷さんもいたので、猟友会の者だけは、禁猟期間も塩谷さんの銃殺を許されていた。先日撃ち殺された塩谷さんは家族の空腹をなんとかしようと、街に出て食糧を探していたところ、猟友会に殺された。家族はその年の解禁日当日、殺された塩谷さんの皮膚を剥いで中に綿を詰め、まるで塩谷さんが帰ってきたかのように見える人形に近づいたところをハンターたちに一斉に射殺された。

この夏、小野さんの生肝臓の店舗での提供が禁止された。ある小野さんの肝臓を食べたものたちが相次いで食中毒にかかったためであるが、小野さんの生肝臓のファンは多く、「新鮮な小野なら大丈夫なんじゃないのか?」という抗議もあったが、やはり「命が一番大切」ということで6月30日を最後にすべての店舗で小野さんの生肝臓の提供は終わった。最終日には普段の3倍の小野さんが使用されたという。

その中には今回のこの前代未聞の危機。人類最後の危機。突如現れた圧倒的脅威「侵略者」に立ち向かうべく世界各国の軍隊が結集して作った『地球連合軍』の日本支部 作戦統括部長、小野秀明の肝臓もあった。

人類は完全に敗れ、食生活を模倣され、自分たちがそうしてきたように次々と様々な調理法で食われた。愉しまれた。蹂躙された。

家族を顧みず、人類の生き残りのためだけに命をかけて使命を全うしようと寝食を忘れて戦った小野秀明の肝臓は状態が悪く、本来なら出してはいけない「ランク€」のものであったが、ブームに乗じて密かに店に出されたのである。小野秀明の肝臓を食べたのは子供の『侵略者』であった。彼は携帯ゲーム機を片手に実にあっさりと一口で小野秀明を滅した。子供は「なんかクサい」とだけ言って、そのままゲームの世界に戻っていく。あまりにも不憫だ。

しかし小野秀明の遺志はまだ死んでいなかった。

翌日、子供の『侵略者』は腹を壊して学校を休む。小野秀明の生肝臓の最期の一矢であった。

しかし腹痛はたいして重症でもなく、医者からは胃薬と整腸剤を処方されただけで一日安静にすれば治ると言われた。子供の『侵略者』は少しだけ痛む腹をさすりながら、学校に行かなくてもよくなったこと、一日中ゲームをできることを喜んだ。

ちょうど、近くの牧場で小岩井コーポの成人女性が悲鳴を上げる時間帯である。その様子を『侵略者』たちは「のどかだなぁ」と表現するのである。



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7.26.2012

溶眼病の物語。

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わー、突然人が目の前からいなくなったーと思ったら足元で同い年ぐらいの女性がうずくまっていて、両手で顔面を押さえていた。周りの人間が僕と女性とを交互に見比べながら一様に怪訝な顔をしているから、なるほど僕がこの女性になにかしらの精神的苦痛、つまり卑猥な言葉だったり罵倒だったり、あるいは臀部を右手の甲でのの字書きにしたとかもっと直接的に乳を揉んだ、揉みしだいたとかしてその結果女性は屈辱を感じてうずくまってしまったかのような構図ができていることに驚いて、僕は「あのー、え?えーと、あれ?なんつうか、あのー、だいじょーーぶ?」とうずくまる女性に声をかけるのだけど僕のただでさえ小声のなんとも情けないお声がけの、特に後半部分は周りの人誰一人にも聞こえなかっただろうから、僕の冤罪はまだまだ晴れないのだけど、ちょっとそれどころじゃなくなったのは、女性のその奇声である、悲鳴である。

僕のなんとも情けないお声がけの後半部にとどまらずここら一帯のすべての音を凌駕するような大音量で、つまり彼女は絶叫した。


「目があぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁああああっ!!!!」


百万本の鉄鋼針のようなその声は音の速さで均等に平等に、まわりを戦慄させた。そう、彼女は今流行りの溶眼病患者でおましたのである。

うずくまった女性を見下ろす僕からは彼女のとぅるんとした形のいい後頭部で隠れて双眸を確認することはできなかったけれど、しかしながら顔面を押さえた手の隙間や指の間から並々と溢れて床に落ちては砕けて血液と共に流れ広がってゆく赤色透明のゼリー体がかつては彼女の目玉の内側を作っていた大事なファクターであるのはよーくわかる。

テレビで何度もやっていた検証番組。結局ヤグラマダラ蚊という本来日本にいないはずの蚊が密輸だかなんだかに便乗して入国、持ち前のビッグダディ精神で異常な繁殖力を誇り、中部国際空港界隈からあっちゅう間に日本中に拡散された。

「あ!」

蚊は蚊だから人を刺すのだけど、ヤグラマダラは眼球を刺す。ヤグラマダラに刺された眼球は最初は本当にゆっくりと膨張する。毒素が眼球全体に達するまでの3日間、刺された本人に自覚症状がなにもないのが厄介で、実はこの間に医者に行けば取り留めることがなんとかできるようにはなった。人類の医学もがんばっとるんやで。ええぞ、ほめたる。こっちこい。けれど3日経ったらダメ。もうダメ。
あれ?目がなんか熱いなぁと思うか思わないかくらいかの超加速で眼球は本当にいきなり破裂する。


ぱんっ!


あぁ、この人も3日間わからなかったのかぁと思いながら僕は女性を見下ろしていた。そこにさっそうと駆けつける男性、「大丈夫ですか!」と声をかけてるけど、んなもん大丈夫なわけないだろうが、バカなんじゃないの、眼球割れてんだぜ?つってたら男性はさっそうと女性の身体を床へ寝かせた。そして顔面にかかった長い髪をさっそうと脇によけて「そんな…」と呟いた。

「両目です!」

男性はさっそうとまわりに叫んだ。こいつはいちいちさっそうとしていてなんか逆に鬱陶しいな、いつもの僕ならそう心情吐露できたのだと思うけど、さすがにこのときはそれどころじゃなかった。

ウソでしょ?まじで?

僕を含めて周囲が露骨にざわつく。だって溶眼病は本来片目にしか発生しない。そして一度眼球の破裂という悲劇を受けた人間はその苦しみ悲しみ憎しみと引き換えに堅牢な免疫に保護されて、なんだかよくわからないが、要するに眼球が破裂すると、もう片方の眼球が防虫、つまりベープの役割を果たし始めるという不思議なことになり、ヤグラマダラ蚊に刺される心配はなくなるはずなのだ。

両目が失われている、これはつまりこの女性が免疫不全型の溶眼病であることを示している。あるいはもともと隻眼、つまり片目しかない人だった可能性もあるなぁ。いずれにしてもこれはヤバい。本来ならベープになっているはずの残された眼球がベープで言うところのコンセントが抜けていて全然熱くなってない状態とでも表現しようか、つまり防虫効果を備えていなかったため、女性は残る眼球をも狙われ奪われてしまったのだ。免疫不全型の溶眼病に限らず、もともと隻眼だった人が、残る目を溶眼病で失った場合もそうなのだが、これは最悪だぁ。最悪だ。ヤグラマダラ蚊はどういう理屈なのか、つるっとしていて柔らかいものを好むらしく、両目を奪った次は真っ直ぐに脳みそを狙う。どこでどう連絡を取り合うのかも定かではないが、誰かが溶眼病で両目を失うと即座に大群を形成して押し寄せ、先ほど眼球が破裂したばかりの空洞から怒涛の侵入、目の裏側にすぐに脳みそがあるわけではないけど、ほどなくして脳みそに到着。一斉に脳みそに針を突き刺して脳汁を啜り楽しむ。一匹の毒素でも眼球を破裂させるほど強力なヤグラマダラ蚊が大群で脳みそにアタックをかけるわけだから、脳みそは一気に膨れあがり、やがて頭蓋骨ごと爆発するのである。

眼前の女はまさに、ヤグラマダラ蚊の餌食になろうとしていた。大群でヤグラマダラ蚊が飛んでくる。周りはその事実に気付いて逃走を始める。視界を失った女性も、大衆による轟音のような足音ですべてを察したのか「いやあっ!いやあっ!」と叫ぶそんな中、僕は平気の平作で女性を見下ろしていた。


南無三だよ女。成仏しろよ、運が悪かったんだお前さんはよ。
僕は格好をつけた。

しかしその格好をかき消すようにさっそうと声がした。

「簡易移植をしますっ!」

声の主は、さっきから女に付きっきりのあのさっそうマンであった。さっそうマンは隻眼であった。いつの間にか女のカバンからさっそうと取り出した『眼球データカード』を印籠のようにかざして、さっそうマンは逃げ惑う人々の足を止めた。

『眼球簡易移植』──これは溶眼病で両目を失った人間が現れた際に、素人がその場でその場の誰かの眼球をお手軽に取り外して両目を失った人間の片目に移植するという画期的にロックな解決法である。
免疫不全型の溶眼病は体質ではなく単なる一過性の何かの不具合によることが多く、従って両目を失った人間に片方だけでも眼球を移植した場合、そのほぼ全ケースで正常に免疫を、ベープを形成することがわかっている。そして簡易移植には大きな利点がある。それは防虫効果なのだけど──僕はさきほどから「防虫効果」を連呼しているけれど、普通の溶眼病で残された眼球が得るのは「虫がよけて行くタイプ」の防虫であるが、簡易移植を行った際、移植された眼球は「虫がよけて行くタイプ」の前に、まず始めに「虫を殺すタイプ」つまり「殺虫」効果を発揮し、そのあと防虫化するのである。理由や仕組みはよくわからないがそうなのだからそうなのだ。つまり移植直後の被移植者は一定時間、人間フマキラーと化す。するとそれまでの大ピンチが一転、脳みそ狙って大群で押し寄せてくるヤグラマダラ蚊を一網打尽にできる逆転大チャンスに変わるのである。

しかしこの簡易移植、強烈に不平等な措置に思える。健全な目をくり抜いて他人に移植するわけで、くり抜かれた方は溶眼病で目が溶けたわけではないのに隻眼になり、溶眼病で目が溶けたわけではないから残った目がベープになるわけでもない。これだけだと一見明らかに欠陥のあるシステムだが、実は簡易移植で眼球を提供した人間は全国の国立病院で保存されているスペアの眼球を戻してもらえることになっている。あとかなりのお金をもらえる。表彰もしてもらえる。故郷に錦を飾れる。もちろんこれらは後日の話で、したがって、隻眼の人間はドナーから免除されている。なぜならキットで目玉をくり抜いた瞬間、両目を失った人間としてハイエナのような嗅覚のヤグラマダラ蚊に察知されて速攻で襲われてしまうから、基本的にドナーは双眸無事の人間に限られる。スペアなんて便利なものがあるなら、なぜ溶眼病で失った目にはスペアを戻せないのかという当然の疑問が出てくるだろう。答えは簡単で、溶眼病で隻眼になった患者にスペアを移植すると、なぜかもう片方の、残っていた目がベープをやめてしまい、さらに破裂してしまうのである。もうわけわかんねーよー。

ということで国民は常日頃から自分の血液型や左右の眼球のサイズなどを記した『眼球データカード』を携帯し、万が一に備えている。そして免疫不全型の溶眼病が発生し、患者が両目を失ったときは、近くにいる人間が「民間簡易移植の宣言」を行う。そうすると周囲はそれに従う義務を負う。そもそも免疫不全型の溶眼病が発生すると間もなく周辺から大量のヤグラマダラ蚊が飛来してくるわけで、そしたらその中の数%は気まぐれに近くにいる別の人間の眼球を狙うことは全然ありうる話で、人々にとっては人間フマキラーが一気に全部をやっつけてくれる方がありがたいに決まっているので、簡易移植には協力する方が賢明である。

ということでさっそうマンは女性の眼球データをさっそうと読み上げる。

「血液型はA型!破裂した眼球は右!サイズは7.2です!」

両目がある人間たちは各々定期入れやら財布やらメガネケースやらシルクハットやらなんやかんやから自分の眼球データカードを取り出して確認するが、悔しそうに首を横に振るばかりである。しかしそれも仕方がない、サイズが7.2の眼球は日本人では珍しく大きなものである。日本人の平均がだいたい6.5、ちなみに黒人になると8.0というツワモノもいる。以前テレビを賑わせていた世界最大の眼球を持つ男のサイズが9.1で彼はかなり話題になったが人気の絶頂で生放送中にヤグラマダラ…

「あなた、血液型とサイズは?」

いやん。

迂闊だった。興が乗りすぎてしまった。

女性の一番近くにいるくせに、自分の眼球データカードを一切確認することなく周囲をにやにやと見渡していればそりゃ怪しまれる。さっそうマンは怪訝な顔で、隻眼で、僕の両目を交互に覗き込んできた。やめろ、さっそうマン、こっちみんな、あっちいけ。

パニックが起きてもおかしくないこの状況で、それでも僕は少しも慌ててはいなかった。それは僕が稀有な幸運に恵まれていたからであった。

ある日、僕は女に不義理を働いてビンタをされた。仕方ない、むちゃくちゃしてもたんやから。そしてビンタを受けた際にその女の爪が目をひっかいたような気がしてそんで眼科を受診したのだが、眼科医と膝を突き合わせて診察を受けているまさにその場所でヤグラマダラ蚊に左目を刺されたのである。もちろん刺される瞬間さえも眼科医に確認された僕は即座に特効剤を点滴された。

最初の方で述べたけども、溶眼病はヤグラマダラ蚊に刺されてから3日後に眼球が破裂する怖い病気ではあるが、3日以内に特効剤を点滴すると、破裂は免れてせいぜい多めの目ヤニが出る程度で終わるし、刺された目は防虫効果を発揮、結果的に目をひとつも失うことなくベープになれるのである。しかしこの3日間は自覚症状がほとんどないため、98%以上の患者はチャンスを逃している。

さっそうマンに詰め寄られた僕はどこにしまったか忘れている眼球データカードを必死で、必死のふりをして探す。ほどなくして風俗嬢の名刺とミスドのポイントカードの間にはさまっているのを見つけると自分のデータを確認して、いやはや危ないところだったと気づく。

「すみません、A型ですが右目のサイズは7.4ですね。左目は7.2なんですけど」

そうだった、僕の眼球もデカいんだった。

協力できないことが心から残念であると告げるとさっそうマンも「そうですか…左目ですか…」と言って既に両手に持っていた禍々しい『民間用簡易移植キット』を悲しそうに上下に振った。周りはふたたび逃げ始めようとする。僕も、まぁベープがあるからヤグラマダラになんかされることはないが、かといって人間の頭部の爆発なんて見たくない。だからその場を去ろうとした。

そしたらまたさっそうマンが叫んだ。叫びながら僕の手をつかんだ。

「間違えてました!破裂した目は右目ではなくて左目でした!うっかりしてました!私から見れば右目ですが、本人にとっては左目でした!そして左目のサイズは7.2です!あなた、お願いします!スーパーヒーロー!」

さっそうマンは満面の笑みでスーパーヒーローこと僕を見つめながら叫ぶと簡易移植キットをキラキラさせてきた。


いやだった。


溶眼病のせいで今や隻眼も珍しくなくなった。隻眼の方が多いくらいになってきている。そもそも簡易移植ならば明日にでも医者に行けばスペアを戻してもらえる。そしたら両目に戻れる。金ももらえるし表彰もされる。

しかし僕の場合はそういうわけにはいかないのだ。

僕は今、左目がベープをやっている状態だから、それを失ってしまうと右目が無防備になる。さらに明日スペアを戻してもらえたとしても、スペアの左目はただの左目でベープなんかできないから、両目が揃っても完全なる無防備。ヤグラマダラに怯える日々に突入してしまうのである。

今の僕は幸いなことに両目が揃ってるのにベープができているという最強状態。ベープの獲得は普通、痛みや悲しみと引き換えで、つまりは片目を失って初めて手に入れられる最後の安息である。僕が『両目でベープ』であるということが知られれば皆嫉妬するだろうしあらぬ反感を買うだろう。噂は近所に広まりピンポンダッシュとか生ゴミをドアノブに塗られるとか架空請求詐欺などの憂き目に遭うかも知らんし、悪い人がこの話題に食いついて僕の左目を狙いに来るに決まってる。捕まったら最後、目ん玉くり抜かれて終わりである。隻眼のベープさえも何人も攫われてるのだから僕なんて一発である。

以上の点により、僕はさっそうマンの要求を却下した。


「うっさいんじゃ、ボケ。お前、さっそうとすんな」と言い残して逃走。


非難轟々。そんなのは鹿十である。遠くの空で真っ黒な霞が蠢いている方角に全力で走り出す。「逃げたぞ!」と声がするが心配いらない。僕は走り続けてそのまま真っ黒な霞、つまりは女性目指して飛んできたヤグラマダラ蚊の大群の中に突っ込む。左目のベープが本領を発揮してヤグラマダラ蚊たちは左右に別れる。

ヤグラマダラ蚊の大群に紛れれば追いかけてくる人間はかなり減る。他人のために好きこのんで自分の目を危険に晒す人はいない。しかし油断は禁物である。背後で足音がする。振り向かなくてもわかる。

隻眼のベープたちだ。

彼ら彼女らは自ら溶眼病の悲劇を体験しているだけにこういう場面では異常な正義に燃える。そもそも両目が揃っている人間に対して嫉妬に似た気持ちを持っており、両目があるのに逃げ出した僕なんかは最高の餌食、日頃の不平不満恨みつらみを当てつける最高の相手なのである。

「まてこの野郎」というさっそうとした声がわりとすぐ後ろで聞こえてきてもうアカン逃げられへんと思った僕は急遽立ち止まって振り返る。隻眼の男、さっそうマンが両眼前に迫っていた。怯んだ相手が態勢を立て直す前に相手に飛びかかり、さっそうマンの手に握られた移植キットをさっそうマンの顔面に残されたひとつだけの眼球に嵌め込んでスイッチオーン。たった2秒でさっそうマンのさっそうとした眼球は簡単お手軽に眼窩から外れてぽとりと地面に落ちる。砂に塗れる。

僕はまた走り始める。ヤグラマダラ蚊の大群の一部が枝分かれして倒れたさっそうマンにも向かってくる。

いやだなぁ、いやだなぁ、まだこの距離だと頭蓋骨の破裂音は聞こえてきそうだなぁとヤグラマダラ蚊の霞の中で思いながら走り続けていると、突然2秒ほど、まるでにわか雨が降ったような音がして、黒い霞が一気に消えた。僕はおぉーと思うし言う。

この音は大量のヤグラマダラ蚊が人間フマキラーに一掃されて地面に落ちたときの雨音みたいな独特のやつである。
両眼のドナーは現れなかったから隻眼の誰かが自分に残った唯一の眼球を女性に簡易移植したんだろうなぁ、えらいなぁ。でもバカだなぁ。ヤグラマダラ蚊はいっぱいいるんだぞ。

結構疲れたのでゆっくり歩く。前方の空には新しく真っ黒な霞が蠢いていて、新しいエサの誕生を喜んでいるようで、楽しそうにゆらーりゆらーり揺れているのを僕は両目でしっかりと見つめている。



以上のような内容の夢で目が覚めて、左目にめばちこができていたから、これはなんらかの自分への戒めだなぁと思いました。



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5.26.2012

国語・ザ・マスターベーション。

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二の腕をさわってもらいたい。

あなたの二の腕である。人差し指と中指と親指で、二の腕をそっとやさしくつまんでほしい。そう、そう、もっと・・・もっとだ。力を込めるのではなく、弾くように、奏でるように、リズミカルにあなたの二の腕をさわってもらいたい。
こっちを見て。ジッと僕の目を見て。目を逸らしたらダメ。瞬きもダメだ。僕を見つめながら、自分の二の腕をさわってもらいたい。


さて。

今あなたがさわっているであろう「二の腕」だが、本当は「二の腕」という名前じゃないことはご存知だろうか? もちろん「二の腕」という名前はあるのだけど、それは「肘から手首までの部位」を指すのである。きっとあなたは今、肘から上の肩から下の部分をつまんだまま、きょとんとしていると思うが、その「肘から肩までの部位」の名前、実は、本当は「一の腕」なのである。

ドドーン!!

昔から使われている言葉が、いつの間にか違う意味で使われてしまっていることを「誤用」と呼ぶ。インターネットで『誤用』をググッてやると「誤用にご用心」というサイトが出現して僕は大きく仰け反り「なんたるセンス」と舌を巻いた。

さて、日本語で最も有名な「誤用」はなんだろうか。やはり「確信犯」は有名である。「確信犯」という言葉は最近、『自分がやっていることを悪いことだとわかった上でそれでも罪を犯す人』のこととして使われている。わざと悪いことをした人に「おまえはん、確信犯やないけー!」と言ってケツを蹴るというシーンは街を歩いていれば当たり前のように見られる。「ベランダに干してあるパンティを不法侵入した上で窃盗するというのは、あかん。やったらあかんとわかっているけれど、でも欲しいっ! 欲しいから、オレはやる!」という人が今、「確信犯」と呼ばれている。

けれど本来の意味は違う。むしろ真逆なのである。

本来「確信犯」というのは『自分がやっていることは正しいことだと信じて法を犯す人』のことを言うのである。「嗚呼、ベランダにパンティが干してある。あのパンティ、とてもいい。まるでオレのために誂えられたかのようなデザインじゃないか。特に股間部分にバタフライの刺繍がしてあるのがとてもいい。あれはオレのためのパンティだ。オレのパンティだ。オレのためのバタフライが、ベランダで自由に飛べずに苦しんでいる。許せん。あのパンティ、当然オレが持ち帰るべきだから、今からオレはあのパンティを取りに行く!」といって下着を盗む人のことを「確信犯」と呼ぶのである。

そういったことから確信犯は「思想犯」と呼ばれることも多い。自分の宗教を信じ、自爆テロを起こすような犯罪者が本来の「確信犯」なのである。

しかしまぁ、法治多宗教国家日本において「確信犯」と出会える機会というのはそうそうないし、パンティ盗んでおいて思想がどうのこうの言うようなやつとは関わり合いたくないから、その「確信犯」は誤用ですよと言われてもピンと来ない。もっと日常で簡単に使える、使ってしまう、ルクエみたいな「誤用」はないかと考えてみると、やはり「煮詰まる」が圧倒的なんじゃないかと思う。

例えば御社で会議をしていて、「ぐわぁーっ! おまえらーっ! なんかこう、パッと華やかで、クッとスタイリッシュで、サッとできる、それでいて予算は一切かからない、とにかく、こう、なんかもう、なんて言うの? すんごいアイデアはないのかっ! この給料泥棒めがっ!」と阿呆な課長に言われたとする。そこで「お前が一番の給料泥棒やないけ、このドハゲ」なんて言ってしまったら即刻馘首。家族もろとも路頭に迷ってしまう悲しいサラリーメンはどんなに理不尽なことを言われたとしても、とりあえずなにかを考えようとするだろうけれど、この場合そんな都合のいいアイデアなんてすぐに出てこないし、すぐに出てきた場合、既に競合他社がそれを実践している確率が極めて高くなる。そうやって、みんながむむぅと押し黙ってしまったときに、阿呆の課長はこう言うのである。

「ダメだな、煮詰まってきたな。休憩でもとろうか」と。

しかしこれは間違いである。

だいたいがそうだけれど、 無理して難しい言葉を使おうとしてかっこつけたときに「誤用」は発生してしまうのである。

「煮詰まる」はもともと料理において煮詰めていた具材にだし汁が浸透しきってもうすぐ完成するから手を洗ってきなさい的な様子から生まれた言葉であり、「議論が徹底的にし尽くされて、問題が解決する一歩手前の状態」という意味の明るい言葉なのである。上記会議の場合は「煮詰まる」ではなく「行き詰まる」が正解である。

他には「的を得る」と言ってしまう人もよくいる。これも男が女からモテようとしたときに極めて発生率が高くなる。これは「当を得る」「的を射る」を混同してしまった結果である。混同つながりで言えば「汚名返上」「名誉挽回」を混同して「汚名挽回」としてしまうケースも報告されている。どこに? え、オレに? オレ知らねぇよ!

最近では言葉使いのお手本でなければならないはずのテレビでもこういった「誤用」をしばしば見かけるようになった。例えばサッカーの日本代表だとか、プロ野球だとか、僕はスポーツに興味がないのでなんでもいいけど、コーチが不甲斐ない選手のプレイにブチ切れて喚き散らすシーンで「檄を飛ばした」などと表現されることがあるけれど、これも本当は間違っていて、「檄」というのは『自分の意見が書いてある板』のことで、それをヒュンっと「飛ばす」わけだから、「檄を飛ばす」の本来の意味は『自分の意見を広く知らせる』というだけのことで、別段激怒して悪鬼羅刹の表情になって選手が小便ちびるレベルの大声で罵倒する必要はないのである。

この誤用、なんでそんな風になったのかなぁと考えてみる。たぶん、「檄」という漢字が「激」と似ており、なおかつ「ゲキ」という音声がもうなんかすげぇ勢いのある恐い感じがするところから生まれたんじゃないかなって勝手に思っている。音声っていうのは実はとても重要であり、音声のせいで発生したと思しき「誤用」も多い。

たとえば「おもむろに」という言葉があるが、これも「おもむろ」「おも」「おもいきり」とか「おもくそ」とかと同じだからか、「唐突に」という意味で認識している人が多い。「おもむろにチンチンを見せてきた」と表現したとき、おっさんがものすごい勢いでズボンのファスナーを開き、「見さらせ!ワシの生きザマぁ!!」と咆哮しながら勢いよく局部を見せてきたようなシーンを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。でも漢字変換してみればわかるが、「おもむろに」「徐に」と表記する。「徐」「徐行」「徐」である。「おもむろに」『ゆっくりと』とか『じわじわと』というのが本来の意味なので、「おもむろにチンチンを見せてきた」の場合、おっさんが、なんだかモジモジしながら、ゆっくりとファスナーをおろして、勿体ぶるような感じで・・・と、書いていて非常に不快なのでここで止めるが、そういう意味なのである。例文を間違えたな、オレ。

このように誤用というのは、基本的になにかしらの原因があると僕は思う。「行き詰まる」「煮詰まる」は似ているし、先述の「混同」然り、「檄」の持つ雰囲気然り、かならず原因がある。

他にもわかりやすい誤用に「辛党」が挙げられると思う。
今まさに、大学生活をエンジョイ・ワッショイしてらっしゃる方はまだこの言葉と出会う機会を持てていないかも知れないが、目下バリキチで社会人をやってらっしゃる方なんかは、もしかしたら上司や取引先なんかにいるおっさん(※この場合のおっさんはチンチンを出すおっさんとは違うおっさんです。)が「ワシ辛党やねん」と言うのを聴いたことがあるかも知れない。

「辛党」というのは「甘党」の反対っぽい。どう見ても反対である。「甘党」『甘いものに目がない人』という意味だから「辛党」「辛いものが好きな人」と間違える人が多い。ちなみに「からい」「つらい」が同じ漢字だということに僕は憤りを感じているが、それは昔日記に書いたので、ここでは取り上げない。話を戻すと「辛党」「辛いものが好きな人」ではない。昨今の韓国ブームで、韓国料理に舌鼓を打ちながら「あたし、辛党なんですぅ~」とやってる豚みたいな女がテレビに映し出されて、皆さんの食事が不味くなるという経験は誰にでもあるだろうけれど、「辛党」の本当の意味は「甘いものよりも、お酒が好きな人」のことを言うのである。要するに「辛党」「酒好き」なのだ。

しかし、これに関しては少し悪意を感じる。「甘党」をわかりやすく「甘いものが好きな人」にしておいて、「辛党」「酒好き」ってのは、これはもう言葉サイドが誤用を誘っている。「オフサイド・トラップ」ならぬ「誤用・トラップ」である。どうですか、このうまくない表現。

まぁでも我々肝に銘じておくべきなんじゃないかな。「○党」とつくからといって、「それそのものが好きな人」という意味ではないということは「自由民主党」とかさ、「民主党」とかもさ、自由や民主の事なんて好きじゃなくて「お金が好きな人」の意味かもしれないしさ、「みんなの党」なんてのはさ、もはやみんなのものでもなんでもないのかもしれないよ? と唐突に社会を皮肉ってみる。

ということで長くなってきたし、他にも皆さんが出会いそうな誤用をざっと並べてみよう。

「姑息」という言葉があるが、「ずるい」という意味ではなく、「その場しのぎ」という意味である。「知恵熱」「頭を使いすぎて熱が出る」という意味ではなく、「赤ちゃんが原因不明で発熱すること」を言う。「募金する」「無償でお金を与える」ではなく、「お金を集める」ことである。「にやける」「思い出し笑いをしてニヤニヤする」というような意味はなく、「色っぽい表情を見せる」という意味である。「爆笑」「一人がものすごく大笑いすること」ではなく、「大勢の人が一斉に笑うこと」である。

この他にも「誤用」とされているものは山ほどある。Googleで「誤用」と調べればたくさん出てくる。

しかし、これらは本当に「誤用」として一括りにしていいのだろうか、と疑問に思う。

たとえば「全然いい」という言葉がある。これは長い間「誤用」とされてきた。昭和20年代、「全然」の後ろには、肯定的な表現を持ってきてはいけないというルールがあった。「全然OK」なんかもダメ。だからローラはこの時代に生まれてきてよかったよね。「全然」を使うときは、「全然ダメ」とか「全然血が止まらへん」とか「全然お金がなくてもうオレは死ぬ」とか「全然会議が進まない」とか「ベランダのパンティに全然手が届かへん」とか、そういう否定的な表現のときに限って「全然」は使われるべきだというルールがずっとあったのだ。しかし、ここ最近の研究により、「全然」が中国から船に乗ってやって来た江戸時代から昭和10年代まで、普通に「全然+肯定」が使用されてきたということがわかったのである。要するにローラは今この現代か、それか昭和10年代に生まれてきていればセーフだったのだ。

「すごく」も同様である。「すごい」を漢字変換すると「凄い」となって、うわぁつ、なんだかコワモテだなぁと思うでしょう? それもそのはず、元々「すごい」ってのも否定的表現にしか使ってはいけないという話があった。
だから、ベッドとかで「あー、すごくいいわー、あなたのそれ、すごいわー」みたいなことを、まぁ僕レベルになるとしょっちゅう言われるのだけれど、言われるたびに「あーあ・・・『すごい』っていうのは否定的な表現にしか使ったらダメなのになぁ」と落胆しながらもたくましく腰を振り続け、最後は「すみません、出ちゃいました」と謝ったのに、ちゃんと謝ったのに側頭部をナポレオンが馬に乗った彫刻が施されたウィスキーボトルで殴打されて死んだりしていた。

言葉というのは生き物であると思う。

時代時代で変化する。現在は「マダム口調」とされている「~だわ」とか「~なのよ」という語尾も、もともとは明治時代の女子学生たちの間で流行っていた、いわゆる流行語であり、今で言うところの「超○○」とか「ウケる~」と同じようなもので当時の新聞では「最近の女子学生たちの言葉使いが汚い」と呆れられた言い回しなのだけれど、今ではどうだろう。「山の手」なんてもて囃されてどちらかというと『上品な言葉使い』とされている。

つまり、30年もすれば、金持ちのおばさんが皆さん「超ウケる〜」と連呼し、それが「上品」とされている可能性だって高いのである。

「誤用」ととらえるか、「言葉の変化」ととらえるかはとても難しい問題だと思う。

例えばダイジェストの中でさらっと紹介した「爆笑」に関しては、もうほぼ日本中の人が「一人がめっさ笑っている状態」のことを指していると考えるだろう。こうなってくるとややこしいのが、「正しい意味を知っているマイノリティ」になってしまうことである。

ある言葉を正しい意味で使ったときに、「正しい意味で使っている人が間違っている」感が生まれてしまう。こんな悲しい話はない。

しかし、一度「二の腕」は本当は「二の腕」じゃないということを知ってしまったあなたは、もうこれから友人と会話したときに、あなたが女性だったらまぁ、十中八九「二の腕」の話にはなるんでしょう。そんなとき、周りの友達は純粋無垢な屈託のない表情で「私の二の腕超やばーい」と繰り返すのを、あなたは「ソコ、本当ハ『一の腕』ナノニナァ」とロボになってしまい、イマイチ乗りきれずに和談を終了してしまい、結果周囲から「あのコってなんかノリ悪くね?」と陰口を言われることになるのである。ちなみにこの「陰口を言う」も本来は誤用で「陰口を叩く」が正しい使い方なのである。


さて女性陣に聞きたいのだけれど、こんな彼氏はどうだろうか?


絶対にイヤだろう。そうだろう、わかるわかる、うんうん、わかる。そうだね、うん、気持ち悪いね、窮屈だね、うんうん、そうだ、うん、キモい、うん、お願いされてもイヤだね、うんうん、そもそも彼氏以前に友達としてイヤ、そうだね、うんうん、そう・・・もうええやろっ!!! そんな言うなやっ!!!



わかっている。こんな理屈っぽいことを言ってる僕はたぶん結婚とかできないと思うし、女の人に生理的に嫌われるだろうから、だから僕はこういう文章を書くことで、僕の文章で、女性が自分の二の腕をさわっているところを想像して興奮したり、ベランダに干されたパンティを2時間凝視したりして、今日も元気に生きています☆




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4.21.2012

面白い読み物について考える。

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ブログ然り日記然り、面白い読み物に出会えると嬉しい。わぁ面白いなぁと言えるのは至福の瞬間だと思う。自分でも物を書くから人から面白いと思ってもらいたいし、面白いと言ってもらいたいといつも思っているのだけれど、最近なかなか自分で面白いのが書けたなぁとまで言えるものができなくて困っていたため、亀を火で炙って甲羅に走るひび割れの具合で吉凶判別をしようと河原に急いだのだけど、亀はいないし増水しているし、戦争はなくならないしで諦めて南無三、久しぶりに日記を書いてみたら、まぁ人からの評価はどうであれ、自分としては面白いと思う物が書けたので、この機会に僕はどういう基準で文章の善し悪しを判断しているのか、今日は暇な仕事場にいるわけだしちったぁ考えてみようと思った。

読み物に必要不可欠な三大要素はコンテンツ、センテンス、ボキャブラリィだと思う。どんな内容にするか、どういう文体で書くか、どんな言葉を使うか、この3つが文章には大切だと少なくとも僕は考えているらしい。

例えばお涙頂戴の日記を書こうと思ったら、コンテンツを決める必要がある。不治の病とか、叶わぬ恋といった悲劇的内容にするのか、もしくは友情、恋愛、夫婦愛、親子愛といったわりと狙いやすいジャンルで行くのか。まずはコンテンツを確定してエンターキーを弾いてやる必要がある。

次に文体である。
です・ます調子で温和にいくか、である・だ調子でロックにシェケナベイベーするか、方言を駆使するか、ヴォイニッヂ手稿よろしく新たな言語を作るのかを考える必要があるし、人称は一人称なのか三人称なのか、一人称にするなら「ぼく」なのか「僕」なのか「ボク」なのか、はたまた「オレ・俺・おれ」「わたし・私」もしくは「あたい」にして場末感を醸し出してもいいし「拙者」とか「小生」として時代錯誤感を入れてもいいし、「やつがれ」として卑屈にへりくだってもいいが、とにかく人称を決める必要がある。

接続助詞は「~から」で統一するのか「~ので」で統一するのか、はたまた混用したっていいじゃないか、ニンゲンだものと嘯くのか。主語述語・修飾被修飾語の並び順なんかも決めたいところである。たまに倒置法を使ってオシャレにしてみたり、体言止めによりワンピースで言うところの「ドンッ!!!!」を演出してみたり。句読点を意識的にいれたりまたはいれなかったりするのも工夫のひとつだと思う。

このようにセンテンスは小さな工夫がたくさんできるところだから、遊ぼうと思えばいくらでも遊べるものの、自分の工夫が相手に伝わりにくい部分なので練りに練ったセンテンスをぶつけてみたところ、「超意味わかんねーしきめぇし死ねばいいのに、この脱腸が」と冷や水を浴びせられることもあるから、やりすぎず、でも個性を持たせつつという、とても難しいバランスが求められるんじゃないかと僕なんかは思っている。


のだけど。


あぁ、そういえばこういった「改行の数」も、読み物ではよく使われる手法だと思う。特に横書き読み物に多い。改行の数、それは期待の値、ハードルの上げ幅である。改行すればするほど、そのあとにくる一文はそこにふさわしいものでなければならない、というのに例えばmixiの日記投稿コミュニティを覗いてみると、この改行技が溢れ腐っていて、僕がここの日記を読まなくなったのは溢れすぎる改行のせいだし、僕自身はなるべく改行はしないように書いているのだけど、そしたら「長くて読むのめんどくせーんだよ、バーロー」とコナン風に批判されたりした。








悲しかった。








コンテンツとセンテンス、今更言わずもがなの最上川だけど、重要である。そんなことは僕だけじゃなくてみんな知ってる。青山弁護士もトミーリージョーンズも知ってるだろうと思う。
だから、みんなここにすごくこだわる。こだわることはいいことだ。少なくともこだわらないよりはいいことだ。しかし、みんながみんなここにこだわりすぎて、もう今やこだわりの飽和。こだわりの決壊が起こっている。
個性的独創的唯物的であろうとする人が増えすぎてしまったせいで、画一的模倣的模範的なコンテンツやセンテンスと化し、それが溢れ返るという、パラノイド・アンドロイドじゃねーや、パラドクスが発生してしまって、もはや四半世紀くらいは過ぎてんじゃねーかな、と僕なんかは思う。

先述の倒置法や体言止めなんかがまさにそうで、出現当時は目から鱗が落ちるような、あるいは破天荒な効果的手法だったはずなのに、今では「出た、倒置法」みたいなことを言われちまっていて可哀想だと思う。
世界でも倒置法に同情してるニンゲンは僕くらいじゃないかな、あはは。
斬新だったはずの手法が一般化しすぎて古く見える、映画のCGなんかも同じ轍を辿っていると思うけど、要するにコンテンツとセンテンスで面白さを見せるっていよいよ難しいんじゃないかなと僕は思う。僕が思う。

まさかのここまで全て前振りで、本題はここからである。「だからお前の文章は長くてかったりーんだよ、とっつぁ~ん」というルパン3世的な批判は甘受しておくとして、僕なんかはボキャブラリィ、これが面白い読み物の決定打であると考えています・おます。

ボキャブラリィというと「難しい言葉をたくさん知っている」と誤解されがちだけども、そういうことではなく、僕の考えるボキャブラリィは「選語能力」とでも名付くのか、とにかく「このコンテンツの中で、このセンテンスの中で、この言葉を使うのか」と驚嘆できるとき、僕は「面白いなぁ」と感服するのである。

以前、詠み人はわからないが、『イースター島の滅亡要因』というタイトルの読み物をあたったことがあるのだけど、その中で、イースター島にやってきた人たちが島の肥沃な土壌、歌う小鳥や魚、チョウチョたち、溢れる生命力に触れ、まるで楽園のように感じたでってことを、筆者は「熱海みたいだった」と表現していて、あぁ、いいなぁと思ったのである。

面白い読み物には面白いボキャブラリィを感じられる、これが持論である理由のもうひとつとして、ボキャブラリィに敏感な人はアンテナが高いと思うのである。

先述したが、コンテンツやセンテンスは流行もあるし、雛形が多くできている。ヒットするコンテンツのパッケージは溢れているし、センテンスの雛形はなんせ義務教育で習う。模範的センテンスからの逸脱だったはずの倒置法や体言止め、擬人法やオノマトペなんかもすっかり授業で教わってしまう。

コンテンツとセンテンスは工夫が簡単な要素なのだと思う。もちろん工夫をミスれば見向きもされなくなるが、こういう内容はウケますよとか、こういう文体が流行ってますよ、というのは特に意識しなくても耳に入ってくるし、そこをなぞれば基本的に外さない。

しかしボキャブラリィに関しては違う。お笑い芸人フットボールアワーの後藤さんのツッコミが持て囃されるのは、要するにボキャブラリィの妙なのだと思う。「その言葉を使うか!」と驚かせること、それはアンテナが低いとできない。喩えるのも、説明するのも選語を間違えば成り立たない。

そしてボキャブラリィの逸脱は、文章に個性を与えるのだと思う。通常そんな文章にそんな言葉は使わないよってタイミングで適度に逸脱した単語文節を挟んでみる。それが効果を生むこともあると思うのだ。

例を挙げるのは難しいけど、なんでもいいや、例えば『森ガール』という単語はファッション誌の中で使われるのが基本だけど、ド下ネタ連発の書き物の中で浮かないように使用するには見極める目が必要だと思う。『ナウいヤング』という言葉は今では使われない。使われない言葉を敢えて使う以上、一定の効果が期待される。その期待に応えられたとき、文章は輝くと思うのだ。

そのように考えている僕は、やはりボキャブラリィを気にしながら書いている。「なんでそんな妙な言葉を使わせない、じっちゃんの名に懸けて!」と金田一風に批判されたとしても、僕はそこだけは意識して書いていると思う。イースター島の歴史の話で「熱海」を使うてみるのもそういった動機からである。

画一化されちまったコンテンツ、整理されちまったセンテンス、汚れちまった悲しみの中で、オリジナリティやアイデンティティを確保できる最後の楽園、それがボキャブラリィなのかもしれないと考えているからであり、だからボキャブラリィに工夫のある文章にこれからも出会って行きたいと思う。

面白い読み物というのはそこにあるような気がしている。

詰め所に詰めながらここまで書いて、まだ一度も邪魔が入らない、仕事が入らない。

今日の仕事、本当に必要だったのでしょうか。その旨を日報には書いておこうと思う。もちろんボキャブラリィに工夫したいので、オール下ネタで日報は完成させたい。


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1.16.2012

君が代問題について、無理矢理考える。

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前々から、ちらほら聞いてはいたけれど、それにしてはよくわからんのが、世間には君が代を歌うことを嫌う教師とか、君が代を歌うときに立たない教師がいて、それが問題になっているという問題、通称「Gimme God YO!! 問題」ではなく「君が代問題」である。

僕ももう三十路をええかげん過ぎたわけで、世間を賑わせている問題については、一定程度の知識を持っていて当然と言われる年齢である。しかしながら、この「君が代問題」についてはホントになんにも知らなかった。単純に現象として「君が代を歌いたがらない人間がいる」ということしか知らなかった。しかし、なにかの事件や事象が起こって、それを説明しなければならないとき、必要な情報は「なぜ」の情報である。どういう経緯があって、どういう理由があって、その事件が発生したのかについて説明できなければ、そのことについて『知っている』とは言えない。

ということで、手っ取り早く『君が代問題』についてWikipediaで調べてみたのだけれど、普段であればWikipediaで調べればどんな問題も即座に明らかになり「あーよかったなー、あなーたがーいてー」と花☆花のヒットソングを口ずさみながらまた元の、うだつの上がらない生活に戻れるはずだったのに、今回に関してはWikipediaで調べてみても、よくわからないのである。なんというか、溜飲が下がらないのである。正直、君が代問題について、僕はあまり興味がない。なんというか、おもしろい話ではないので、Wikipediaを斜め読みして終わり、でよかったのに、読みながらも「えーどういうことー」と思ってしまったのである。

例えば、君が代を歌いたくない人間の言い分はこうである。

「君が代を歌うと、戦争時代を彷彿とさせる」

お前何歳やねん。お前きっと戦争を知らない子供たちだったはずやろ、戦争時代に生きてないやろ、そんなやつが、1分弱の歌聴いただけで、なんで戦争思い出すねん、どないしてもたんや。

続いてこうである。

「君が代の歌詞は天皇君主制の賞賛であり、それを肯定することはできない」

お前、どんだけ歌詞読みこんでるねん。どこにそんなこと書いてあるねん。

と言うと

「歌詞の至る所に、天皇賞賛の『比喩』が隠されている」

と反論してくるが、もう、お前、病院行け。

確かに、君が代の歌詞は意味不明である。きっとそこには多分に比喩が含まれている。しかし、そもそも詩的表現において、『比喩』というのは、受取手の解釈の自由度を保証するものである。発信者は比喩を使った以上、受取手が自分の意思と違う解釈をしたとしても文句を言ってはいけない。もしも自分の発信したとおりの解釈をして欲しいのであれば、比喩のような婉曲表現を使わず、直接、「てーんーのーおーばーんーざーい」という歌詞で歌を始めなければならない。

要するにそこよね。もしも『君が代』の歌い始めが「きーみーがーあーよーおーはー」ではなく、「てーんーのーおーばーんーざーい」だったら、GHQのときに国歌はすげ替えられているはずである。君が代が「天皇君主制の賞賛」なのであれば、そこに一番敏感に反応し、反応すべきだったのは戦後間もない人々であり、2012年の僕たちではないのである。
温故知新、昔の人々、要するに当事者が「それでええ」と言うたこと、戦争を経験し、悲しみに暮れ、死んだり生き残ったりした人々が「君が代については、これでええです」と言うたことを、今のオレらがやいやい言うなよーって思うのです。


大体さ、その、起立しない先生とか、歌わない先生もさ、カラオケ言ってAKB48とか、西野カナとか、忌野清志郎とか、斉藤和義とかを朗々と歌ってるわけだろう? 歌詞なんか気にして歌ってないんだろう? 「それは国歌とは違う」って言うかもしれんけどさ、歌うか歌わないかっていうのは信条の問題であって、それは「卒業式だから歌わない」とか「国歌だから歌わない」程度の問題ではいけないわけで、ベジタリアンは普段から野菜食わないってのと同じ話なんじゃないのかなぁ。

んでさ、卒業式ってなんのためのもの? 誰のためのもの? っていうと、コレは間違いなく「卒業生のためのもの」なわけで、そこに水差すなよな。

国歌だろうが何だろうが、式典というのは、みんなが立つときは立つ、座るときは座る。クリスチャンも、仏教徒も、天理教徒も、創価学会員も、イスラム教徒も、ゾロアスター教信者も、アムラーも、AKBヲタも、無神論者も、天上天下唯我独尊野郎も、卒業生であればみんな立ったり座ったりしてる。卒業式の「式」ってのも、これはたしか神道由来の儀であって、「式」の意味は「日常/通常とは違う空間の創造」だったはず。「1+1=2という『式』があるが、1と1を並べてみても2には見えない。そこで『1と1を加えると2になりますよ』という意味や現象を創造し、全員で信じ込んだり共有するのが『式』である」とか、京極夏彦が言うてた。だからみんな、普段とは違う服装で、会場にも垂れ幕やらなんやらをして、「非日常」を演出する。そして、「式」の完成を創造し、共有するためには、全員の『参加』が必要なのである。

要するに、国歌斉唱のときに立っていない人がいた場合、「式」の参加者は、その人の信仰や信条を斟酌することはない。だって、自分にだって信仰や信条はあるけれど、それよりも「式」の完成』を優先しているのだから。だから、参加者から見れば、起立しない人、歌わない人は「協調性に欠ける」だとか、「私たちの卒業式を妨害している」という程度にしか写らないんだよ。

つまり、経験もしていない戦争を彷彿とさせるだとか、別に迷惑を被っているわけではない天皇に文句言うてるつもりの、自分の必死のパッチの主張は、端から見たら「ちゃんとせぇやー」とか「あいつなんやねん」とか「必死か」程度にしか写ってないし、そのくせその後の打ち上げのカラオケなんかで「らーぶらーぶあーいをーさーけーぼー!」とか言うてたら、いよいよ「お前なんやねん」になるから、君が代ぐらい歌えばいいと思う。

そもそも、日本にいて、生活できている恩恵を少しでも感じているのであれば、君が代歌うことくらい躊躇ないだろう。途上国で生きるか死ぬかの人間が、もしも「日本での生活を保障してあげるから君が代歌ってくれ」って言われたら、めっちゃ必死で歌うと思う。

最後に、僕なりに君が代を超訳してみようと思う。戦争も知らないし、天皇のこともよくわからない僕の超訳なら、問題ないだろう?

『君が代』
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔の生すまで。

超訳:「君と好きな人が、百年続きますように」

ほら、こんな歌、なかったっけ?





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1.11.2012

ほとんどのことはどうでもいいことである。

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昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を「好き・嫌い」で分けなくなったというものがある。もう少し正確に言うと、色んな事に「嫌い」を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて「まずい」とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで「おもしろくない」とも言わなくなってきた。

もうなんか、どうでもいいじゃないかという気持ちである。

僕がなにかについて「嫌い」とか「面白くない」とか「まずい」などと言って、誰の得になるだろう、誰か幸せになるのかなと思い始めたのである。それこそ昔は尖っていて「アンチであることのクール」みたいなところにしがみつき、「お前達は全然わかってない、あんなものはクソだ」などと喚いていた時期もあったが、最近はそういう体力がもうない。というか、そういうことに頭を使うと、疲労がえげつないのである。

元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、「オレの日記、面白いでっしゃろ」と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。

僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを「嫌い」と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を必死になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもう、すんごいしんどい。そして相手が「わかったわかった、私も嫌うからもう許して」と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに「幸せ」は存在しない。

一方、「好き」を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の「好き」が深まるのだからある意味でフェールセーフな作業なのである。

それに、例えば映画を見て、本を読んで、それを「面白くない」と言う人と、「面白い」と言う人がいたとき、どうだろう。どっちが「勝ち」だろう。勝ち負けじゃないとしたら、どっちが「幸せ」だろう。

僕は、「面白くない派」は一生「面白い派」に勝てないという結論を出している。

子供向けの映画を見たとき、「これは単なる子供だましだ」と言う人と、一緒になって泣ける人がいたら、少なくとも後者の方が「得」だろう。だって、僕たち一般人間が、誰に頼まれているわけでもないのに声高に「あんなものは子供だましだ」と叫んだとして、誰が得するだろうか、そいつはなにか得をするだろうか。

僕たちの声は別に誰に届くわけでもないし、ある作品をネガティブに批評したって誰も得しない。「批判」というのはきっと、「批判している自分」に何かしらの価値があって、それを評価してくれる存在がいると信じている人が行う作業なのだと思うけど、特に映画や文学作品を、オレやお前ごときが「批判」したところで、きっと幸せになる人はいない。

というと、「質の悪い作品を見せられて、『これはいいものだ』と洗脳されて、それを唯々諾々と受け入れるのか、お前はアホか」だとか「押しつけられた価値観ではなく、自分で考える力が必要だ」だとか言う人もいるが、まぁ別にそれでもいいけれど、そういう人は「押しつけられた質の悪いものを、悪いと言える力が必要」ということを言いたいようだけれど、「質が悪い」という判断自体がもう、全然主観的だし、下手すれば「ハリウッドだからダメ」的なことも言いかねないし、「押しつけられるのがイヤだって言っても、しょうがないじゃないか」とも思う。そんなに押しつけられたくなかったら、自分で海外に映画を仕入れに行くとか、国内でくすぶってる若手監督を探しに行くとかすればいいのに、結局そういうことはしないわけで、じゃあもう「押しつけられる環境」に別に文句言うなよーどうしょーもねーなと思うし、そもそも、「押しつけられ」ようが、「質がわる」かろうが、それでも尚、そんな環境においても尚、「面白い部分を探せる」ヤツが最強だと思うのである。「自分で考える力」というのは「批判する力」ではない。無価値だとされているものから価値を見いだす能力というのもあるし、そっちの方が救いようがあるんじゃなかろうか。

質の悪い物からも、いいところを見出す、押しつけられた物にさえ「ありがとう」が言える、いいじゃないか、かっこいいじゃないか。

と僕は考える。

例えばある一冊の本を読んだとき、それを「面白い」と言う人と「面白くない」と言う人、どちらが「読み込めている」だろうか。もちろん「読み込めているかどうか」なんて客観的に測定することはできないから、「読み込めているように見える」だろうか。つまりどちらが「楽しんでいる」だろうか。もちろん前者である。

要するに、僕が一冊の本を読んで「全然おもんなかったわぁ」と言った隣で「めーっちゃ面白かった!」と言ってる人がいたとき、僕がするべき事は「あんなんのなにがおもろいねん!」とケンカをふっかけることではなく、「マジで? どういうとこが面白かったん??」と、自分に欠けている情報、自分が読み込めなかった幸せを補完することじゃないだろうか。

それが対子供であったって同じ事である。ついうっかり「子供だまし」と思ってしまっても、子供が「面白かった!」と言うのであれば、「どういうところがよかったのか」を聞くのが正しい姿勢であると思う。

食事についてもそうである。この時代、「まずい料理」なんてものにあまり出会うことはないだろう。「不味い」とは「味にあらず」「味ではない」という意味であるけれど、そんなメシ、なかなか食う機会がない、そんなメシを食える機会に恵まれないのが現実である。食えたときは、むしろ「笑い話」として人々に共有したくなるだろう。つまり「まずい料理」はラッキーチャンスなのである。それ以外の中途半端なものは、どれだけ妥協して評してみてもせいぜい「普通」レベルだろう。「味がまずい食事」なんてものはそうそうないと思うし、飲食店で「まずい」なんて、それは事件である。

以上長々と書いてきたが、要するに、ほとんどのことはどうでもいいことである。そして、自分の評価というものは、別に世界を変えられるわけではない。

だから、もう僕は「好き/嫌い」ではなく「好き」「めっちゃ好き」「美味い/不味い」ではなく、「美味い」「めっちゃ美味い」「面白い/面白くない」ではなく、「面白い」「めっちゃ面白い」で物事を捉えていて、現在とても幸せである。

嫌いな物を人に押しつける時間を使って、好きな物を人に押しつけることができて、幸せである。

できれば、世界中の全ての人が「おもしろくない」と言うものについても、おもしろさを見つけられる人間になりたい。というか、「世界中の全ての人が『面白くない』と言っている」ということが既に面白いんだけども。



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