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芦屋市某町で最も栄誉ある音楽賞、ヒロニー賞2012発表。

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さて、今年もやってまいりました。 ヒロニー賞2012 の発表を行いたいと思います。 ヒロニー賞は、2012年1月1日以降に僕のパソコンに追加された曲の中から、年間を通じてiTunesおよびiPodでの再生回数の最も多かったアーティストに贈られるという、 芦屋市某町における最大の音楽賞 です。 受賞資格は下記の通りです。 1)僕のパソコン (iTunes) に入っていること。 2)追加日が2012年であること (発売日が2011年以前でも追加日が2012年以降であれば受賞資格有り) 3)プロ、アマ問わず。 今年も昨年同様 再生回数ベスト50に入った楽曲の再生回数を、アーティスト別に集計し、 『最も再生された10アーティスト』 の発表 となります。 それでは、参りましょう。 第10位:Sean Paul  【合計再生回数: 84回 】 『She Doesn't Mind』 / 1  song nominated 《寸評》 ショーンポールって、15年ぐらい前のデビュー当時は 「イケメンレゲトン」 として鳴り物入りだったのにさ、もう顔パンパンやないのんさ。なんでこう、一世を風靡した人間はおっさんになると顔パンパンになるのかなぁと思って見て気付いたのは、別に一世を風靡しなくても誰もが華麗とともに顔パンパンになっていくという事実と、僕もちっとは顔パンくらいになりたいよなぁという悲哀。 ちなみにこのPVに出てくる女性はみんな細すぎず健康的にセクシーでいいですね。外国ではガリガリのモデルは使うなとか、そういうことを言われ始めていて、いよいよガリガリの人権は風前の灯火。ガリガリの喫煙者なんて、もう河原で暮らせとか言われるようになるのかなぁ。なんか、悲しくなっちゃった。 第9位:Mariah Carey  【合計再生回数: 106回 】 『Hero』 / 2  songs nominated 《寸評》 いくつになっても変わらないことを 「三つ子の魂百まで」 と言うけれど、やっぱりマライア・キャリーを見ると勃起するっていうか、セックスシンボル的な印象は変わらないままである。たぶん初めてマライア・キャリーを知ったのは小学校だったか中学校だったかのクリスマスソングで、そのときもきっと思春期真っ只中だった僕は勃起したんじゃな

Jack in November

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毎年11月11日、神戸市中央区の歓楽街、三宮のとあるクラブで大規模なブラックジャックの大会 『Jack in November』 が開催される。 ブラックジャックはトランプを使った有名なカードゲームでルールは様々あるが、まぁYouTubeの動画なんかでどういうゲームかは確認してもらうことにして、この大会では二人の人間が毎回ディーラーとプレイヤーとに分かれて1対1で対決することになる。Jack in Novemberでは、クラブ内の至る所に並べられたテーブルを使って、いや、別に床でもいいしトイレでもいいのだけど。とにかく至る所で参加者がゲームを行う。 この大会のルールは下記の通り。 ○勝者は、敗者から 「サイン」 を受け取ること。(参加者の中で 「サイン」 が一番多い人が優勝) ○敗者は、勝者に1度だけ再戦を要求できる。 ○再選を要求された勝者は断ることはできない。 ○初対決でのディーラーとプレイヤーはじゃんけんで決める。(勝った方がディーラー、負けた方がプレイヤー) ○2度目の対決では初戦の勝者がディーラー、敗者がプレイヤーとなる。 ○同一相手との3回以上の対決は禁止。 大会は20:00に始まり、22:00で終了する。対戦は誰かに声をかけることから始まるが、ルールの通り、たくさんの 「サイン」 をもらわないと優勝できないため、優勝を目指している人たちは我先にと弱そうな人間に声をかけ、カモにしていく。しかし同一の相手との3回以上の対決は禁止されているため、大会時間が2時間ともなると、結局広範囲の参加者と対決しなければならない。優勝者には賞金21万円が与えられる。 優勝者以外には別段特典も副賞もあるわけではないので、一部、優勝に向けて血眼の参加者もいるが、だいたいの参加者は単純にブラックジャックを楽しみにきているだけ、もしくは別の目的で参加している人も多い。 同一の相手との再戦が2回までとされるルールは、この大会が 『社交場』 としての機能を果たし始めてから追加された。少しでもたくさんの人と対戦できるように、要するに、カードゲームをしながら、知り合いを増やしていくという楽しみ方もできるのである。異業種の仕事に従事する知り合いを増やしたり、単純に友達を増やしたり、あるいは男女の出会いの場として利用している者もいる。 僕はひょんな伝手でこの

飽食の新時代。

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今度は河村さんのお母さんと3歳になる娘さんがぐちゃぐちゃに潰されて火で熱せられて完全に固まってしまう前に炊きたてのボルボラをよそった丼に載せられて 『親子丼』 として客へ提供されていった。河村さんのお父さんは北田さんのところの12歳になる息子さんとぐちゃぐちゃに潰されて火で熱せられて完全に固まってしまう前に炊きたてのボルボラをよそった丼に載せられて 『他人丼』 として隣の客へ提供されていった。 北田さんのところのご主人は肛門に炊く前のボルボラとその他食材を詰め込まれて腹がパンパンになった状態をオーブンに入れられて、全身まんべんなく焼かれて焦げ目が付いたあたりでパーティー会場へ運搬されていき、シェフ自ずから客前で北田さんのところのご主人を器用に捌いて見せて客は舌なめずりをした。その隣では漁師が河村さんのところの9歳の息子さんの解体ショーを行いパーティーを盛り上げた。ちなみに北田さんのところの2歳になる娘さんは輪切りにされて骨付の状態で熱した平鍋の上に並べられ、赤い色をしたアルコホールを高い位置から落とされると平鍋のアルコホールは引火し、娘さんの肉片は豪快な青色の炎に包まれた。この瞬間、場内は一層盛り上がり、大量のカメラのフラッシュが眩しく瞬いた。 要するに河村さんとこと、北田さんとこは全滅した。 場所を変えると小岩井コーポ全24戸在住の成人女性は全員大きな小屋の中で各自柵に入れられていて、両乳に漏斗状のメカを装着されている。漏斗状のメカはホースで大きなタンクにつながっており、定時になるとタンク内の気圧がゼロ、真空になるから自動的かつ乱暴に搾乳が始まり、その時間になると小屋は悲鳴で溢れかえる。ちなみに小岩井コーポの男衆は捌かれて冷凍室に保管されていたけれど、その中の1体からややこしい病原体が発見されてしまい全体始末された。 かつて鯖沼ダイビングスクールがレッスンを行っていた海には鋼鉄糸の網で生簀が作られており、明日は大量のダイバーたちが引き揚げられる予定だ。その模様をテレビクルーが取材しており、活きのいい長嶋さんを漁師がその場で捌く。ウェットスーツを器用に剥がして内臓を取り除き、潮水でさっと洗ったものをレポーターがそのまま食べる。レポーターはおもしろコメントに定評があるから、長嶋さんを食った感想を笑いたっぷりでお送りするだろう。長嶋さんはかつては某広告代

溶眼病の物語。

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わー、突然人が目の前からいなくなったーと思ったら足元で同い年ぐらいの女性がうずくまっていて、両手で顔面を押さえていた。周りの人間が僕と女性とを交互に見比べながら一様に怪訝な顔をしているから、なるほど僕がこの女性になにかしらの精神的苦痛、つまり卑猥な言葉だったり罵倒だったり、あるいは臀部を右手の甲でのの字書きにしたとかもっと直接的に乳を揉んだ、揉みしだいたとかしてその結果女性は屈辱を感じてうずくまってしまったかのような構図ができていることに驚いて、僕は 「あのー、え?えーと、あれ?なんつうか、あのー、だいじょーーぶ?」 とうずくまる女性に声をかけるのだけど僕のただでさえ小声のなんとも情けないお声がけの、特に後半部分は周りの人誰一人にも聞こえなかっただろうから、僕の冤罪はまだまだ晴れないのだけど、ちょっとそれどころじゃなくなったのは、女性のその奇声である、悲鳴である。 僕のなんとも情けないお声がけの後半部にとどまらずここら一帯のすべての音を凌駕するような大音量で、つまり彼女は絶叫した。 「目があぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁああああっ!!!!」 百万本の鉄鋼針のようなその声は音の速さで均等に平等に、まわりを戦慄させた。そう、彼女は今流行りの溶眼病患者でおましたのである。 うずくまった女性を見下ろす僕からは彼女のとぅるんとした形のいい後頭部で隠れて双眸を確認することはできなかったけれど、しかしながら顔面を押さえた手の隙間や指の間から並々と溢れて床に落ちては砕けて血液と共に流れ広がってゆく赤色透明のゼリー体がかつては彼女の目玉の内側を作っていた大事なファクターであるのはよーくわかる。 テレビで何度もやっていた検証番組。結局ヤグラマダラ蚊という本来日本にいないはずの蚊が密輸だかなんだかに便乗して入国、持ち前のビッグダディ精神で異常な繁殖力を誇り、中部国際空港界隈からあっちゅう間に日本中に拡散された。 「あ!」 蚊は蚊だから人を刺すのだけど、ヤグラマダラは眼球を刺す。ヤグラマダラに刺された眼球は最初は本当にゆっくりと膨張する。毒素が眼球全体に達するまでの3日間、刺された本人に自覚症状がなにもないのが厄介で、実はこの間に医者に行けば取り留めることがなんとかできるようにはなった。人類の医学もがんばっとるんやで。ええぞ、ほめたる。こっちこい。けれど3日経ったらダメ。もうダメ。 あれ?目がなん

国語・ザ・マスターベーション。

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二の腕をさわってもらいたい。 あなたの二の腕である。人差し指と中指と親指で、二の腕をそっとやさしくつまんでほしい。そう、そう、もっと・・・もっとだ。力を込めるのではなく、弾くように、奏でるように、リズミカルにあなたの二の腕をさわってもらいたい。 こっちを見て。ジッと僕の目を見て。目を逸らしたらダメ。瞬きもダメだ。僕を見つめながら、自分の二の腕をさわってもらいたい。 さて。 今あなたがさわっているであろう 「二の腕」 だが、本当は 「二の腕」 という名前じゃないことはご存知だろうか? もちろん 「二の腕」 という名前はあるのだけど、それは 「肘から手首までの部位」 を指すのである。きっとあなたは今、肘から上の肩から下の部分をつまんだまま、きょとんとしていると思うが、その 「肘から肩までの部位」 の名前、実は、本当は 「一の腕」 なのである。 ドドーン!! 昔から使われている言葉が、いつの間にか違う意味で使われてしまっていることを 「誤用」 と呼ぶ。インターネットで 『誤用』 をググッてやると 「誤用にご用心」 というサイトが出現して僕は大きく仰け反り 「なんたるセンス」 と舌を巻いた。 さて、日本語で最も有名な 「誤用」 はなんだろうか。やはり 「確信犯」 は有名である。 「確信犯」 という言葉は最近、 『自分がやっていることを悪いことだとわかった上でそれでも罪を犯す人』 のこととして使われている。わざと悪いことをした人に 「おまえはん、確信犯やないけー!」 と言ってケツを蹴るというシーンは街を歩いていれば当たり前のように見られる。 「ベランダに干してあるパンティを不法侵入した上で窃盗するというのは、あかん。やったらあかんとわかっているけれど、でも欲しいっ! 欲しいから、オレはやる!」 という人が今、 「確信犯」 と呼ばれている。 けれど本来の意味は違う。むしろ真逆なのである。 本来 「確信犯」 というのは 『自分がやっていることは正しいことだと信じて法を犯す人』 のことを言うのである。 「嗚呼、ベランダにパンティが干してある。あのパンティ、とてもいい。まるでオレのために誂えられたかのようなデザインじゃないか。特に股間部分にバタフライの刺繍がしてあるのがとてもいい。あれはオレのためのパンティだ。オレのパンティだ。オレのためのバタフラ

面白い読み物について考える。

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ブログ然り日記然り、面白い読み物に出会えると嬉しい。わぁ面白いなぁと言えるのは至福の瞬間だと思う。自分でも物を書くから人から面白いと思ってもらいたいし、面白いと言ってもらいたいといつも思っているのだけれど、最近なかなか自分で面白いのが書けたなぁとまで言えるものができなくて困っていたため、亀を火で炙って甲羅に走るひび割れの具合で吉凶判別をしようと河原に急いだのだけど、亀はいないし増水しているし、戦争はなくならないしで諦めて南無三、久しぶりに日記を書いてみたら、まぁ人からの評価はどうであれ、自分としては面白いと思う物が書けたので、この機会に僕はどういう基準で文章の善し悪しを判断しているのか、今日は暇な仕事場にいるわけだしちったぁ考えてみようと思った。 読み物に必要不可欠な三大要素はコンテンツ、センテンス、ボキャブラリィだと思う。どんな内容にするか、どういう文体で書くか、どんな言葉を使うか、この3つが文章には大切だと少なくとも僕は考えているらしい。 例えばお涙頂戴の日記を書こうと思ったら、コンテンツを決める必要がある。不治の病とか、叶わぬ恋といった悲劇的内容にするのか、もしくは友情、恋愛、夫婦愛、親子愛といったわりと狙いやすいジャンルで行くのか。まずはコンテンツを確定してエンターキーを弾いてやる必要がある。 次に文体である。 です・ます調子で温和にいくか、である・だ調子でロックにシェケナベイベーするか、方言を駆使するか、ヴォイニッヂ手稿よろしく新たな言語を作るのかを考える必要があるし、人称は一人称なのか三人称なのか、一人称にするなら 「ぼく」 なのか 「僕」 なのか 「ボク」 なのか、はたまた 「オレ・俺・おれ」 、 「わたし・私」 もしくは 「あたい」 にして場末感を醸し出してもいいし 「拙者」 とか 「小生」 として時代錯誤感を入れてもいいし、 「やつがれ」 として卑屈にへりくだってもいいが、とにかく人称を決める必要がある。 接続助詞は 「~から」 で統一するのか 「~ので」 で統一するのか、はたまた混用したっていいじゃないか、ニンゲンだものと嘯くのか。主語述語・修飾被修飾語の並び順なんかも決めたいところである。たまに倒置法を使ってオシャレにしてみたり、体言止めによりワンピースで言うところの 「ドンッ!!!!」 を演出してみたり。句読点を意識的にいれ

君が代問題について、無理矢理考える。

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前々から、ちらほら聞いてはいたけれど、それにしてはよくわからんのが、世間には君が代を歌うことを嫌う教師とか、君が代を歌うときに立たない教師がいて、それが問題になっているという問題、通称 「Gimme God YO!! 問題」 ではなく 「君が代問題」 である。 僕ももう三十路をええかげん過ぎたわけで、世間を賑わせている問題については、一定程度の知識を持っていて当然と言われる年齢である。しかしながら、この 「君が代問題」 についてはホントになんにも知らなかった。単純に現象として 「君が代を歌いたがらない人間がいる」 ということしか知らなかった。しかし、なにかの事件や事象が起こって、それを説明しなければならないとき、必要な情報は 「なぜ」 の情報である。どういう経緯があって、どういう理由があって、その事件が発生したのかについて説明できなければ、そのことについて 『知っている』 とは言えない。 ということで、手っ取り早く 『君が代問題』 についてWikipediaで調べてみたのだけれど、普段であればWikipediaで調べればどんな問題も即座に明らかになり 「あーよかったなー、あなーたがーいてー」 と花☆花のヒットソングを口ずさみながらまた元の、うだつの上がらない生活に戻れるはずだったのに、今回に関してはWikipediaで調べてみても、よくわからないのである。なんというか、溜飲が下がらないのである。正直、君が代問題について、僕はあまり興味がない。なんというか、おもしろい話ではないので、Wikipediaを斜め読みして終わり、でよかったのに、読みながらも 「えーどういうことー」 と思ってしまったのである。 例えば、君が代を歌いたくない人間の言い分はこうである。 「君が代を歌うと、戦争時代を彷彿とさせる」 お前何歳やねん。お前きっと戦争を知らない子供たちだったはずやろ、戦争時代に生きてないやろ、そんなやつが、1分弱の歌聴いただけで、なんで戦争思い出すねん、どないしてもたんや。 続いてこうである。 「君が代の歌詞は天皇君主制の賞賛であり、それを肯定することはできない」 お前、どんだけ歌詞読みこんでるねん。どこにそんなこと書いてあるねん。 と言うと 「歌詞の至る所に、天皇賞賛の 『比喩』 が隠されている」 と反論してくるが、もう

ほとんどのことはどうでもいいことである。

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昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を 「好き・嫌い」 で分けなくなったというものがある。もう少し正確に言うと、色んな事に 「嫌い」 を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて 「まずい」 とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで 「おもしろくない」 とも言わなくなってきた。 もうなんか、どうでもいいじゃないかという気持ちである。 僕がなにかについて 「嫌い」 とか 「面白くない」 とか 「まずい」 などと言って、誰の得になるだろう、誰か幸せになるのかなと思い始めたのである。それこそ昔は尖っていて 「アンチであることのクール」 みたいなところにしがみつき、 「お前達は全然わかってない、あんなものはクソだ」 などと喚いていた時期もあったが、最近はそういう体力がもうない。というか、そういうことに頭を使うと、疲労がえげつないのである。 元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、 「オレの日記、面白いでっしゃろ」 と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、 「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」 などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。 僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを 「嫌い」 と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を必死になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもう、すんごいしんどい。そして相手が 「わかったわかった、私も嫌うからもう許して」 と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに 「幸せ」 は存在しない。 一方、 「好き」 を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の 「好き」 が深まるのだからある意味で