1.11.2012

ほとんどのことはどうでもいいことである。

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昨年ぐらいから、自分の中に起こっていた大きな変化のひとつに、物事を「好き・嫌い」で分けなくなったというものがある。もう少し正確に言うと、色んな事に「嫌い」を言わなくなった。人を嫌いにならなくなったし、メシを食うて「まずい」とも言わなくなったし、映画を見て、本を読んで「おもしろくない」とも言わなくなってきた。

もうなんか、どうでもいいじゃないかという気持ちである。

僕がなにかについて「嫌い」とか「面白くない」とか「まずい」などと言って、誰の得になるだろう、誰か幸せになるのかなと思い始めたのである。それこそ昔は尖っていて「アンチであることのクール」みたいなところにしがみつき、「お前達は全然わかってない、あんなものはクソだ」などと喚いていた時期もあったが、最近はそういう体力がもうない。というか、そういうことに頭を使うと、疲労がえげつないのである。

元々僕は、目の前の人に共感してもらいたいタイプの人間である。そうでなければ日記を他人に見せたりしないし、そこにとどまらず、「オレの日記、面白いでっしゃろ」と言うて、好きこのんでコミュニティに投稿し、「おもろいでっしゃろ、投票してこませ」などと恥に恥を塗り重ねるようなことなどしないだろう。僕は間違いなく共感が欲しい人間である。

僕のような、共感ほしーほしー人間は、なにかを「嫌い」と言った際にもやっぱり共感が欲しい。人から共感してもらうには、相手を説得しなければならないから、相手を説得するために、なぜそのものを嫌っているのかについて、その理由を必死に探し、嫌いである理由、あなたも嫌いになった方がいい理由を必死になって相手に訴えかけるという作業が必要なのだけど、こういうことがもう、すんごいしんどい。そして相手が「わかったわかった、私も嫌うからもう許して」と言ってくれたとしても、そこに残るのは言いしれぬ疲労感と虚無。ネガティブを必死に掘り下げても、得る物は虚無しかないし、間違いなくそこに「幸せ」は存在しない。

一方、「好き」を説得する場合はとても幸せである。なぜそのものが好きなのかについて、もっと考えることで、そのものをもっと好きになれる。たとえ相手を説得できなかったとしても、相手から共感を得られなかったとしても、自分の「好き」が深まるのだからある意味でフェールセーフな作業なのである。

それに、例えば映画を見て、本を読んで、それを「面白くない」と言う人と、「面白い」と言う人がいたとき、どうだろう。どっちが「勝ち」だろう。勝ち負けじゃないとしたら、どっちが「幸せ」だろう。

僕は、「面白くない派」は一生「面白い派」に勝てないという結論を出している。

子供向けの映画を見たとき、「これは単なる子供だましだ」と言う人と、一緒になって泣ける人がいたら、少なくとも後者の方が「得」だろう。だって、僕たち一般人間が、誰に頼まれているわけでもないのに声高に「あんなものは子供だましだ」と叫んだとして、誰が得するだろうか、そいつはなにか得をするだろうか。

僕たちの声は別に誰に届くわけでもないし、ある作品をネガティブに批評したって誰も得しない。「批判」というのはきっと、「批判している自分」に何かしらの価値があって、それを評価してくれる存在がいると信じている人が行う作業なのだと思うけど、特に映画や文学作品を、オレやお前ごときが「批判」したところで、きっと幸せになる人はいない。

というと、「質の悪い作品を見せられて、『これはいいものだ』と洗脳されて、それを唯々諾々と受け入れるのか、お前はアホか」だとか「押しつけられた価値観ではなく、自分で考える力が必要だ」だとか言う人もいるが、まぁ別にそれでもいいけれど、そういう人は「押しつけられた質の悪いものを、悪いと言える力が必要」ということを言いたいようだけれど、「質が悪い」という判断自体がもう、全然主観的だし、下手すれば「ハリウッドだからダメ」的なことも言いかねないし、「押しつけられるのがイヤだって言っても、しょうがないじゃないか」とも思う。そんなに押しつけられたくなかったら、自分で海外に映画を仕入れに行くとか、国内でくすぶってる若手監督を探しに行くとかすればいいのに、結局そういうことはしないわけで、じゃあもう「押しつけられる環境」に別に文句言うなよーどうしょーもねーなと思うし、そもそも、「押しつけられ」ようが、「質がわる」かろうが、それでも尚、そんな環境においても尚、「面白い部分を探せる」ヤツが最強だと思うのである。「自分で考える力」というのは「批判する力」ではない。無価値だとされているものから価値を見いだす能力というのもあるし、そっちの方が救いようがあるんじゃなかろうか。

質の悪い物からも、いいところを見出す、押しつけられた物にさえ「ありがとう」が言える、いいじゃないか、かっこいいじゃないか。

と僕は考える。

例えばある一冊の本を読んだとき、それを「面白い」と言う人と「面白くない」と言う人、どちらが「読み込めている」だろうか。もちろん「読み込めているかどうか」なんて客観的に測定することはできないから、「読み込めているように見える」だろうか。つまりどちらが「楽しんでいる」だろうか。もちろん前者である。

要するに、僕が一冊の本を読んで「全然おもんなかったわぁ」と言った隣で「めーっちゃ面白かった!」と言ってる人がいたとき、僕がするべき事は「あんなんのなにがおもろいねん!」とケンカをふっかけることではなく、「マジで? どういうとこが面白かったん??」と、自分に欠けている情報、自分が読み込めなかった幸せを補完することじゃないだろうか。

それが対子供であったって同じ事である。ついうっかり「子供だまし」と思ってしまっても、子供が「面白かった!」と言うのであれば、「どういうところがよかったのか」を聞くのが正しい姿勢であると思う。

食事についてもそうである。この時代、「まずい料理」なんてものにあまり出会うことはないだろう。「不味い」とは「味にあらず」「味ではない」という意味であるけれど、そんなメシ、なかなか食う機会がない、そんなメシを食える機会に恵まれないのが現実である。食えたときは、むしろ「笑い話」として人々に共有したくなるだろう。つまり「まずい料理」はラッキーチャンスなのである。それ以外の中途半端なものは、どれだけ妥協して評してみてもせいぜい「普通」レベルだろう。「味がまずい食事」なんてものはそうそうないと思うし、飲食店で「まずい」なんて、それは事件である。

以上長々と書いてきたが、要するに、ほとんどのことはどうでもいいことである。そして、自分の評価というものは、別に世界を変えられるわけではない。

だから、もう僕は「好き/嫌い」ではなく「好き」「めっちゃ好き」「美味い/不味い」ではなく、「美味い」「めっちゃ美味い」「面白い/面白くない」ではなく、「面白い」「めっちゃ面白い」で物事を捉えていて、現在とても幸せである。

嫌いな物を人に押しつける時間を使って、好きな物を人に押しつけることができて、幸せである。

できれば、世界中の全ての人が「おもしろくない」と言うものについても、おもしろさを見つけられる人間になりたい。というか、「世界中の全ての人が『面白くない』と言っている」ということが既に面白いんだけども。



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