なにをそこまで。

カンニングの事件だけれども、一体何でこんなに大騒ぎになっているんだろう。例えば、試験中に隣の席の人間の答えを覗いたとか、カンニングペーパーを使用したとかで、それらが発覚した場合、絶対にこんな大騒ぎにはならなかっただろう。
ということは、カンニングのやり方が問題だったということになるけれど、時代を考えれば、今時の学生にとって、これはカンニングペーパーと同じレベルのモノであり、時代が変わってカンニングペーパーが携帯電話になったというだけのことであると思う。

そう考えると、なにが悪いかって、今回のようなカンニングのスタイルを予想できなかった古い考え方の大学サイド、あるいは、予想していたとしてもそれを発見できなかった甘い大学サイドっていう結論にしか落ち着かないじゃないか。

1年に何万人もの大学受験生がいる中、彼以外にカンニングをした人が一人もいなかったと考えられるだろうか。僕は少なくともそこまで楽観できない。カンペや、前後左右の席の回答を覗いている人間だって絶対にいただろう。

そういった人間は咎められて失格になったか、あるいは見つかることなく逃げ切ったかしているだろう。受験生も人間であれば大学サイドも人間である。

であるなら、彼一人に全てを押しつけて「わたくしどもは完璧でした」なんて方便は最も苦しいし、非現実的じゃないだろうか。「わたくしどもにも責任がある」という一言もないというのはなんだか不気味である。大学サイドが繰り返すのは「来年の入試では改善する」ということばかり。カンニングをしたとはいえ、一人の人間の将来なんかお構いなしに、ただひたすら「糾弾すべし、徹底的に調べて欲しい」などと生け贄のように扱うのは、これ大人のすることなのだろうか。

カンニングはアカンことである。そんなことはみんな知ってるし、彼自身も知っている。でも、罪刑法定主義というのがこの国にはあって、罪には、その罪にあった罰が下されるべきで、罪以上の罰も罪以下の罰も許されない。また、罪に対する罰はすでに刑法で定められているというのが罪刑法定主義、この国の刑法の根本である。
正直、今、彼に与えられている罰は、もはや死刑に近いようなものだと思う。大学の合格を取り消されたのは仕方ないにせよ、社会的にも抹殺されたも同然だ。匿名にされているとはいえ、個人情報なんて簡単に手に入る。なによりも、事態がここまで大きくなっていることに、本人が怯えてしまっている。

例えば、ある大学でカンニングを見つかって不合格になった。でも、マスコミに取り上げられなかったとする。そいつは一年勉強して、今度は分相応な大学を受ければいいし、受験の際に怯える必要もない。でも、彼は違う。自分が犯した罪を日本中の人が知っているような気がしてしまうのではないだろうか。そうすると、来年、どの大学を受けるにしたって当日頭をよぎるのは一年前のこと。試験官全員が、受験生全員が自分のことを知っているのではないかという恐怖で怯えきってしまうかも知れない。

なによりも恐ろしく悲しいのは、現状と、この先を悲観した彼が、自らの命を絶ってしまうことである。人間は、案外簡単に死を望む。自分が行ったことがメディアを通じて日本中に知れ渡ってしまった恐怖に日々怯えながら生きるより、死んだ方が良いと考えたって不思議ではない。

そして、彼がもし自殺したとして、それを報道するメディアはどれだけいるだろうか。前述の通り、彼を追い詰めたのはどう考えてもメディアである。「自殺の恐れがあったから」「社会的に大きな問題になったから」、逮捕の理由はたくさん挙げられているけれど、すべてメディアが報道したからである。個人と大学の間だけで「こら!」「ごめんなさい」で済んでいれば、リセットできたであろう可能性をメディアが完全に断ってしまっている。

自分たちが悲劇に追い込んだ人間の末路をメディアは報道しないだろう。どういう言葉で締めくくればいいのかわからないだろうから。

あるいは「自責の念に駆られて」などと、わけのわからぬ結句で終わらせるのだろうか。いずれにしても、ネットニュースに「入試ネット投稿事件」なんていうカテゴリを作るのはもうやめて、その分、それと同じだけの熱意を込めて、今年の桜がいつ咲くのかについてを、是非とも報道してもらいたいものである。



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