4.21.2012

面白い読み物について考える。

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ブログ然り日記然り、面白い読み物に出会えると嬉しい。わぁ面白いなぁと言えるのは至福の瞬間だと思う。自分でも物を書くから人から面白いと思ってもらいたいし、面白いと言ってもらいたいといつも思っているのだけれど、最近なかなか自分で面白いのが書けたなぁとまで言えるものができなくて困っていたため、亀を火で炙って甲羅に走るひび割れの具合で吉凶判別をしようと河原に急いだのだけど、亀はいないし増水しているし、戦争はなくならないしで諦めて南無三、久しぶりに日記を書いてみたら、まぁ人からの評価はどうであれ、自分としては面白いと思う物が書けたので、この機会に僕はどういう基準で文章の善し悪しを判断しているのか、今日は暇な仕事場にいるわけだしちったぁ考えてみようと思った。

読み物に必要不可欠な三大要素はコンテンツ、センテンス、ボキャブラリィだと思う。どんな内容にするか、どういう文体で書くか、どんな言葉を使うか、この3つが文章には大切だと少なくとも僕は考えているらしい。

例えばお涙頂戴の日記を書こうと思ったら、コンテンツを決める必要がある。不治の病とか、叶わぬ恋といった悲劇的内容にするのか、もしくは友情、恋愛、夫婦愛、親子愛といったわりと狙いやすいジャンルで行くのか。まずはコンテンツを確定してエンターキーを弾いてやる必要がある。

次に文体である。
です・ます調子で温和にいくか、である・だ調子でロックにシェケナベイベーするか、方言を駆使するか、ヴォイニッヂ手稿よろしく新たな言語を作るのかを考える必要があるし、人称は一人称なのか三人称なのか、一人称にするなら「ぼく」なのか「僕」なのか「ボク」なのか、はたまた「オレ・俺・おれ」「わたし・私」もしくは「あたい」にして場末感を醸し出してもいいし「拙者」とか「小生」として時代錯誤感を入れてもいいし、「やつがれ」として卑屈にへりくだってもいいが、とにかく人称を決める必要がある。

接続助詞は「~から」で統一するのか「~ので」で統一するのか、はたまた混用したっていいじゃないか、ニンゲンだものと嘯くのか。主語述語・修飾被修飾語の並び順なんかも決めたいところである。たまに倒置法を使ってオシャレにしてみたり、体言止めによりワンピースで言うところの「ドンッ!!!!」を演出してみたり。句読点を意識的にいれたりまたはいれなかったりするのも工夫のひとつだと思う。

このようにセンテンスは小さな工夫がたくさんできるところだから、遊ぼうと思えばいくらでも遊べるものの、自分の工夫が相手に伝わりにくい部分なので練りに練ったセンテンスをぶつけてみたところ、「超意味わかんねーしきめぇし死ねばいいのに、この脱腸が」と冷や水を浴びせられることもあるから、やりすぎず、でも個性を持たせつつという、とても難しいバランスが求められるんじゃないかと僕なんかは思っている。


のだけど。


あぁ、そういえばこういった「改行の数」も、読み物ではよく使われる手法だと思う。特に横書き読み物に多い。改行の数、それは期待の値、ハードルの上げ幅である。改行すればするほど、そのあとにくる一文はそこにふさわしいものでなければならない、というのに例えばmixiの日記投稿コミュニティを覗いてみると、この改行技が溢れ腐っていて、僕がここの日記を読まなくなったのは溢れすぎる改行のせいだし、僕自身はなるべく改行はしないように書いているのだけど、そしたら「長くて読むのめんどくせーんだよ、バーロー」とコナン風に批判されたりした。








悲しかった。








コンテンツとセンテンス、今更言わずもがなの最上川だけど、重要である。そんなことは僕だけじゃなくてみんな知ってる。青山弁護士もトミーリージョーンズも知ってるだろうと思う。
だから、みんなここにすごくこだわる。こだわることはいいことだ。少なくともこだわらないよりはいいことだ。しかし、みんながみんなここにこだわりすぎて、もう今やこだわりの飽和。こだわりの決壊が起こっている。
個性的独創的唯物的であろうとする人が増えすぎてしまったせいで、画一的模倣的模範的なコンテンツやセンテンスと化し、それが溢れ返るという、パラノイド・アンドロイドじゃねーや、パラドクスが発生してしまって、もはや四半世紀くらいは過ぎてんじゃねーかな、と僕なんかは思う。

先述の倒置法や体言止めなんかがまさにそうで、出現当時は目から鱗が落ちるような、あるいは破天荒な効果的手法だったはずなのに、今では「出た、倒置法」みたいなことを言われちまっていて可哀想だと思う。
世界でも倒置法に同情してるニンゲンは僕くらいじゃないかな、あはは。
斬新だったはずの手法が一般化しすぎて古く見える、映画のCGなんかも同じ轍を辿っていると思うけど、要するにコンテンツとセンテンスで面白さを見せるっていよいよ難しいんじゃないかなと僕は思う。僕が思う。

まさかのここまで全て前振りで、本題はここからである。「だからお前の文章は長くてかったりーんだよ、とっつぁ~ん」というルパン3世的な批判は甘受しておくとして、僕なんかはボキャブラリィ、これが面白い読み物の決定打であると考えています・おます。

ボキャブラリィというと「難しい言葉をたくさん知っている」と誤解されがちだけども、そういうことではなく、僕の考えるボキャブラリィは「選語能力」とでも名付くのか、とにかく「このコンテンツの中で、このセンテンスの中で、この言葉を使うのか」と驚嘆できるとき、僕は「面白いなぁ」と感服するのである。

以前、詠み人はわからないが、『イースター島の滅亡要因』というタイトルの読み物をあたったことがあるのだけど、その中で、イースター島にやってきた人たちが島の肥沃な土壌、歌う小鳥や魚、チョウチョたち、溢れる生命力に触れ、まるで楽園のように感じたでってことを、筆者は「熱海みたいだった」と表現していて、あぁ、いいなぁと思ったのである。

面白い読み物には面白いボキャブラリィを感じられる、これが持論である理由のもうひとつとして、ボキャブラリィに敏感な人はアンテナが高いと思うのである。

先述したが、コンテンツやセンテンスは流行もあるし、雛形が多くできている。ヒットするコンテンツのパッケージは溢れているし、センテンスの雛形はなんせ義務教育で習う。模範的センテンスからの逸脱だったはずの倒置法や体言止め、擬人法やオノマトペなんかもすっかり授業で教わってしまう。

コンテンツとセンテンスは工夫が簡単な要素なのだと思う。もちろん工夫をミスれば見向きもされなくなるが、こういう内容はウケますよとか、こういう文体が流行ってますよ、というのは特に意識しなくても耳に入ってくるし、そこをなぞれば基本的に外さない。

しかしボキャブラリィに関しては違う。お笑い芸人フットボールアワーの後藤さんのツッコミが持て囃されるのは、要するにボキャブラリィの妙なのだと思う。「その言葉を使うか!」と驚かせること、それはアンテナが低いとできない。喩えるのも、説明するのも選語を間違えば成り立たない。

そしてボキャブラリィの逸脱は、文章に個性を与えるのだと思う。通常そんな文章にそんな言葉は使わないよってタイミングで適度に逸脱した単語文節を挟んでみる。それが効果を生むこともあると思うのだ。

例を挙げるのは難しいけど、なんでもいいや、例えば『森ガール』という単語はファッション誌の中で使われるのが基本だけど、ド下ネタ連発の書き物の中で浮かないように使用するには見極める目が必要だと思う。『ナウいヤング』という言葉は今では使われない。使われない言葉を敢えて使う以上、一定の効果が期待される。その期待に応えられたとき、文章は輝くと思うのだ。

そのように考えている僕は、やはりボキャブラリィを気にしながら書いている。「なんでそんな妙な言葉を使わせない、じっちゃんの名に懸けて!」と金田一風に批判されたとしても、僕はそこだけは意識して書いていると思う。イースター島の歴史の話で「熱海」を使うてみるのもそういった動機からである。

画一化されちまったコンテンツ、整理されちまったセンテンス、汚れちまった悲しみの中で、オリジナリティやアイデンティティを確保できる最後の楽園、それがボキャブラリィなのかもしれないと考えているからであり、だからボキャブラリィに工夫のある文章にこれからも出会って行きたいと思う。

面白い読み物というのはそこにあるような気がしている。

詰め所に詰めながらここまで書いて、まだ一度も邪魔が入らない、仕事が入らない。

今日の仕事、本当に必要だったのでしょうか。その旨を日報には書いておこうと思う。もちろんボキャブラリィに工夫したいので、オール下ネタで日報は完成させたい。


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