1.14.2011

伊達直人の不気味。

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最近、往年の覆面プロレスヒーロー、タイガーマスクの正体である伊達直人? 緒方直人? を自称して、施設にランドセルを贈る者が現れ、それに追随する形で矢吹丈やらなんやらが相次いで施設にランドセルを送りつけていて、日本列島津々浦々「こらええこっちゃムード」になっているのが僕にはどうにも気持ち悪い。なんというか、据わりが悪い。その、据わりの悪さについて考えてみたところ、いくつかの「なぜ?」が据わりの悪さの要因になっていることがわかったので、ひとつずつ潰していこうと思う。

幸いなことに、現在の僕には、そういう無為なことに費やすだけの時間は、腐るほどに、ある。

さて、僕が「なぜ?」と思うのは下記の通りである。

1)なぜ、正体を隠すのか?
2)なぜ、ランドセルなのか?
3)なぜ、模倣者が続出しているのか?

まずひとつめの「なぜ正体を隠すのか?」についてだけれど、これにはふたつの仮説が立っている。ひとつは、日本古来の「秘匿する美」に基づいた、無意識的な行動だという説である。「こういう世のため人のため的なことは、コッソリやるべきだし、実名を公表するなんて不粋の極み。調子に乗ってると思われて石礫ぶつけられてもかなわんし」という気持ちから正体を隠しているのではないかという説である。あるいは「こういうことをやるときは、正体を隠すものだ」という思い込みにすらなっているのかもしれない。

もうひとつの仮説は先の説とは相反して、「目立ちたい」というものである。「おいおい、なに言ってんだ、このチンカス野郎、目立ちたい奴が正体を隠すかよ」とお思いの方もあるかも知れないが、どうだろう、本当にそうお思いか?

例えば、茨城県の佐藤和夫さんが近所の施設にランドセルを寄付したとする。そんなものがニュースになるだろうか? せいぜい地元新聞の「人と街〜つながる絆〜」の紙面を埋めるぐらいのものだろう。少なくともテリー伊藤や小倉さんの口上に登るようなことにはならなかっただろう。今回の事件は、3つの要素で構成されている。これは僕の「なぜ?」と合致するけれど、『正体不明の人間』が施設に『ランドセル』を贈り、『模倣する者』が続出している、という事件なのである。

そして、その中でも「正体不明の人間が行った」からニュースになったのである。佐藤和夫さんが全国の施設にランドセルを配っていたとしても、ニュースにはならない。佐藤さんに倣って、たくさんの人が正体を明かした状態でランドセルを配り初めても、取り上げるのはニュースではなくアンビリバボーとかの番組だと思う。

この、妙な「匿名性」が話題を呼んでいる以上、当事者に「目立ちたい」という気持ちがあったということを否定はできないのではないかと思う。

さて、次の「なぜ?」、つまり「なぜランドセルなのか?」という点である。模倣者の中にはランドセル以外のものを贈っている人がいるようだけど、少なくとも一番最初の『伊達直人』はランドセルを贈った。でも、なんで『ランドセル』なのだろう。鉛筆百本やノート千冊ではダメだったのだろうか。きっと、ダメだったのだと思う。最初の伊達直人にとっては、ランドセルでなければ意味がなかったのだと思う。

でも、受け取る側にすれば、ノートや鉛筆の方がありがたいだろう。施設に入っているのは、なにも孤児だけではないし、入居している「ランドセルを買えない子供の数」「届けられたランドセルの数」が合致しているとは思わない。余ったり足りなかったりするランドセルの処遇に困る施設関係者も多いだろうと思う。

なぜ、そんな面倒くさいランドセルを贈ったのか、答えは明白で、それは、初代伊達直人が「ランドセルじゃなきゃイヤだった」、つまり伊達直人の『好み』、もしくは『願い』だったのであろう。そもそもランドセルというのは、小学校の6年間をずっと一緒に過ごすもので、人間の小学校時代におけるシンボリックなものである。子供達はランドセルと共に色々なものを見、成長していく。そのため、そもそもランドセルというのは、「親から、もしくは祖父母から、つまり血縁者から贈られる」という儀式を経て、一種、神秘的なものに変貌する。血縁者からの「社会を見て回っておいで」というメッセージと共に与えられるのがランドセルであると僕は考える。

そう考えたとき、初代伊達直人がやってることは、はっきり言って、「出過ぎた真似」だと思うのである。そして、「お前、なんかあったんか?」と思ってしまうのである。

正直、一番初めに施設にランドセルを送った伊達直人は、例えば自分に子供ができなかったとか、小学校に上がる前に自分の子供と別れなければならなかったとか、何かの悲劇に見舞われて、先述の「血縁者から子供にランドセルを贈る」という儀式を行えなかった人間なのではないかと考えている。

「孤児」「タイガーマスク」「無償」という言葉で彩られているため見えなくなっているかも知れないが、「見ず知らずのおっさんかおばさんかもわからん人からもらったランドセル」なんか使いたいだろうか? 僕ならイヤだ。それであれば、面倒を見てくれた、親代わりとも呼べる施設の所長から「おめでとう」と言ってもらいながらもらった方が嬉しいだろう。

たとえば、赤子が生まれたばかりの家に、ある日突然おしゃぶりがたくさん置いてあったらどうだろう? ご両親は嬉しいだろうか? それよりは紙おむつがたくさん置いてある方が嬉しいだろう。

僕は、どれだけ慈善事業でも、正体も明かせない人間が、ランドセルを贈るべきではないと思う。それならそれ相応のお金を置いておく方がよほど誠意ある行為だと思う。ランドセルではなく、お金を置いてしまうことで「目立てなくなってしまっても」、本来はそうあるべきである。

正義の味方だからなにしても良いというのは、暴論である。

そして模倣する者の出現に対する「なぜ?」
僕は今回の件の模倣者の平均年齢は「高め」だと推測している。ヒーローのチョイスの古さや、垣間見える、押しつけがましい『願い』に触れるにつれ、そう思う。20代や30代ではない。そして、人生において、子供との間に何かしらの悲劇があった人間、初代伊達直人が始めた行為に感銘を受けた模倣者も同じく、年齢層の高い人間だと思う。子供を失ったほどの悲劇ではないにしろ、自分の子供はもう成人したり高校生だったりして、全然可愛くなくて、小学生の頃の息子や娘は可愛かったなぁと懐古的になっている人たちの行っている、自己満足だと思うのである。

自己満足は悪いことではない。でも、自己満足というのは、自己の不満が満たされた時点で達成されてしまう。こういった慈善行為は継続されなければ意味がない。僕はこの件について、月光仮面の例を出さなかった。昔から、いきなり月光仮面の格好で政治的メッセージを看板に掲げて現れて、金を撒き散らして帰っていくあの月光仮面である。

(彼女)は確かに正体不明であるが、まず姿を現している。そして、配るものは「現金」である。そして、なによりもその行動が「継続されている」という点で、僕は「真である」と思うのである。「真である」つまり、「信念がある」と感じるのである。

今回の伊達直人騒動にそこまでの信念があるのか、それとも、心の傷を癒すための一時的な自己満足なのか、僕は後者に思えて仕方なくて、だからこそ不気味なのである。

僕はもうじき30になるが、職もなければ金もない。そんな僕の所には伊達直人も矢吹丈もルパン三世も、江戸川コナンも誰一人やってこないのだから。


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3 件のコメント:

  1. う~ん。納得。
    施設の住所が分からないという理由で、警察や市役所にまる投げして送られてくるケースもあったりして、拾得物扱いになって新学期までに子どもに届かないとか、対応に困ってるのもあるみたいですしね。そうなると迷惑行為ですね。
    やるならせめてちゃんと自分で調べて責任持ってやらないと…。

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  2. 自分の考え方とは多々異なる部分もあったのですが、ご自身の違和感を丁寧に掘り下げているお姿がここにはありますね。

    親の意見からしますと、ランドセルはまず5万円前後もします。
    寄贈には、ある程度の覚悟が要るものです。

    azarenia

    返信削除
  3. 異議あり!
    なんで日本人ってこんなに他人に厳しいのかね。
    目立ってはいけないという考え方がまさに日本的です。
    寄付をする動機が「目立ちたいから」でもいいじゃないですか。
    どこかの施設長は「うちにも伊達直人来ないかなって言ってたら来た」って喜んでました。
    寄付される側はすごい喜んでるのになんで関係ない人が「不気味だ、偽善だ」と言って寄附活動を否定するの?
    否定的な人が結構いますが、それは自分に利益がないからだと思います。
    自分に利益があれば普通文句を言わないですよね?

    1)なぜ、正体を隠すのか?
    日本は匿名社会だからね。ハンドルネームみたいなもんでしょ。
    それで目立ったとしてもいいじゃん。良い事をしてるんだから。
    慈善活動しても目立たず感謝されないからと辞められるほうが社会の損失です。
    それなら感謝して目立たせてあげたほうが寄付する側のやる気にも繋がると思います。

    2)なぜ、ランドセルなのか?
    ランドセルは高価です。安いのでも1個1万円はします。
    ノート1000冊でも金額にしたらたかがしれています。
    それなら金額の高いランドセルを何個も送ってあげた方がいいでしょう。
    余れば翌年、足りなければ買い足せばいいだけの話。
    「現金にするべきだ」とおっしゃいますが、そりゃ施設側からすればそれが一番ありがたいかもしれませんけど
    プレゼントとして贈るなら現金じゃ気持ちが伝わりにくいでしょ。
    「あしながおじさん」って話ありましたけど見ず知らずの人が何も関係ない自分にプレゼントしてくれたと知れば
    子供達も嬉しいと思うはずですよ。

    3)なぜ、模倣者が続出しているのか?
    負の連鎖ってありますよね。
    給食費未納、年金未納、NHK不払い、こういうのが報道されると「じゃあ俺も」っていって真似する人が増えます。
    実社会では悪い事ばかり連鎖が起きて良い事は連鎖しにくいもんです。
    今回の寄付事件はテレビで報道されたおかげで「じゃあ俺も寄付しよう」っていうめずらしく良い連鎖が起こってるんです。
    いい事じゃないですか!

    >慈善行為は継続されなければ意味がない。
    一度手を差し伸べたら最後まで面倒を見なければいけないんですか?
    そんなにハードルを上げたら気軽に寄付とかできなくなるじゃないですか。
    蜘蛛の糸って話ありますよね?悪事ばかりしてたけど1回だけ良い事をした。
    その1回が重要なんですよ。
    「まぁたまには献血でもするか」ってそれだけでも十分社会貢献になります。
    気が向いたとき、断続的にだっていいんです。
    目立ちたがり屋のいい人。大いに結構。
    自己満だって喜ぶ人がいるならそれでいいじゃない。
    もっとこういう良い事はテレビなどで報道すればいいと思います。

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