『夏日の鳩』

鳩。

1羽の鳩が目の前を横切っていった。首をカクカク動かさなければ前にも進めない生命体、それが鳩。

神様はたぶん、泥酔しながら鳩を作ったんだと思う。

左腕を伸ばして長袖から腕時計の顔を出す。
午前5時37分、早朝の神戸、三宮。8月である。きっと今日も暑くなるだろう。でも、まだ人けのないこの時間帯、真夏の繁華街にも涼しさが多少散らばっている。

それにしても、さっきからしつこいな、鳩が。
人がいない分、まるで「今は自分たちの時間だ」とばかりに、オレという人間を見ても動じる気配もなく、カクカクと首を動かしながら、黙々と徒歩、している。

独特の鳴き声を胴間声のように放つ鳩に対し、苛立ったオレは、試しに足元を歩く鳩を蹴ってみた。つま先が、目の前を歩く鳩の胸元を正確に捉え、そのまま思いきり鳩は吹き飛んでいった。

「ウソだろ…」

場違いではあるけども、鳥を蹴ることができた感動のようなものが体を駆けめぐる。

あんた、鳥を蹴ったことがあるか?

さっきからずっと体中を寒気が駆け巡っているのだけれど、その苦痛が少しだけマシになる。鳩を蹴ったお陰で。

さて。
阪急三宮駅の建物を見上げる。

始発は動いてるだろうか。
動いているとしたら、どっちに帰ろうか。

薄汚いワンルームハイツと、清潔な白と黒に統一されて隅々まで整理の行き届いたきれい好きな綾子の部屋、その2通りを想像する。となれば、オレの薄汚いワンルームはボロ負けである。けれど、さすがにまだ早朝すぎる。そして今日は土曜日、せっかくの休日なんだから、綾子にはゆっくり眠ってもらいたい。

そういう、ごく普通の気遣いができた自分に合格点をあげたくなる。
小さなデザイン事務所で事務員をやってる綾子。広島の高校を出て、神戸にやって来て、私立の女子大学を出て、そのまま銀行の窓口に務めたけれど、仕事内容が肌に合わなくて1年で辞めて、現在の職に就いた。

「今の仕事はホンマに楽しいねん」

広島弁と神戸弁のニュアンスが混ざり合った綾子のしゃべり方が聞こえてくる。鳩の鳴き声よりも、ずっと近い場所で。

オレが生きてきた世界とは全く違うルートを通って大人になってきた綾子。本当にひょんなきっかけで出会ったオレたち。「高校」というものや、「大学」というものや、「銀行の窓口」というものや、「デザイン事務所の事務」というものが全くわからないような世界で生きてきたオレは、綾子が銀行で働いていた頃、まさに自暴自棄が服を着ているかのように、自分の命を爪楊枝程度の価値に軽んじて生きていた。


そんなオレと綾子は出会った。
いつからだろう、女のことをこんなにも愛するようになったのは。

「へっ、『愛する』て…」

封切りしたばかりの話題のハリウッド映画を見に行ったり、雑誌に載ってるカフェでカフェラテをシナモンの棒でかき混ぜたり、手作りの弁当を携えて山に登って野いちごを食ったり。たまに高級レストランで食事したり、夜景の見えるホテルに泊まったり。

そういった全てはこれまでのオレの人生にありえないことだった。なくていいものだった。幸いだったのは、その全ての経験をオレ自身が楽しめたということだろう。

たぶん、12歳の時に両親を亡くして、笑ってしまうくらいの転落人生を歩んできたオレは、そういう“普通の人生”にずっと憧れてきたのだと思う。

だからオレは、普通の人生と、普通の人生を当たり前のように過ごしてきた綾子を心から愛することができた。バカらしいなんて思ったことなんて一度もない。密かに憧れ続けた生活は、実際に手にしてみても本当に素晴らしいものだった。

昔なじみが経営する小さな建築事務所のドアを叩き、事情を説明しようという勇気が出たのも、今の普通の人生を手放したくなかったからだ。今、手放してしまえばオレには二度とこんな生活は戻ってこないと思ったから、何を言われても、どれだけ笑われても、土下座しようとも平気だと思えた。

昔なじみの小林は、そんなオレを笑うことなど全くなく、むしろ目を潤ませながらオレの話を真剣に聴いてくれた。そして、こんなクソみたいなオレを従業員として雇ってくれた。

仕事が決まったという話を聴いて、綾子も喜んでくれた。
もちろん綾子は、オレのことをただの無職だと思ってたから、涙を流してとか、それほど大げさなものじゃなかったけど、ある日、5本のネクタイをプレゼントしてくれた。

「これ、月曜日は赤系でやる気満々になるように、火曜日は少し落ち着くために水色、水曜日はちょっとカラフルに、木曜日ぐらいが一番しんどいから金色ぐらいがちょうどいい、金曜はアフター5も考えてシックにね」

自分の腕に5本のネクタイを曜日順に並べて、綾子が何度も説明してくれた夜のことを思い出す。
物覚えが悪いオレに、綾子は何度も「だ~か~ら~」とか「わざと言ってる?」とか言いながら、ネクタイの順番を覚えないと本当にとんでもない厄災が起こるとでも思っているような口ぶりで、綾子は必死に説明を繰り返した。

だからオレも、ネクタイの順番について、必死になって覚えた。今だって昨日のネクタイ、つまり黒地にシルバーのチェックが細かく入ったシックな金曜日専用ネクタイをちゃんと締めている。

「アフター5はなにがあるかわからんけん、でも、彼氏がダサい男やとは思われたくないしね」
「大丈夫だって、かっこええヤツ他にいっぱいいるからさ」
「あらあら、なんもわかってへんな。アフター5にモテる男っていうのは、かっこいいとかそういうんじゃないんよ」

働き出せば、アフター5もへったくれもなく、毎日21時を過ぎるような毎日で、あの時の綾子の心配が現実になる日は次のオリンピックよりも先のことのように思える。

それでも、たくましい言葉とは裏腹にヤキモチ妬きの綾子は毎日メールを送ってくる。

そんなことさえ、新鮮な気がする。


「生まれ変わりよるな、お前」

先月、まだ働きだして2ヶ月のときに、本当にたまたま、偶然、ラッキーとしか言いようのない理由で、オレは大きな契約を取った。ドシロウトのオレにはその契約がうちではあり得ないほどの大きさだということもわからず、社長である小林に当たり前のように報告したら、小林はひっくり返って2分間咳が止まらなくなって、なんだかそのままの流れで小さな事務所の中で表彰までされて、その夜、小林から「二人で飲もう」と誘われて入った居酒屋で小林に言われた言葉だ。


世間に顔向けできないことなんて、山ほどやって来た。
いや、世間に顔向けできないことしかしてこなかった。

だけど、綾子と出会って、この現実を失いたくないと思ったから、自分じゃ想像できないようなことができた。生まれ変わりたいと思えた。これまでの縁をすべて切り、殴られても蹴られても頭を下げて、様々なしがらみから足を洗って来た。

すべては綾子がいたからだった。


様々なことを思い出しながら歩いているうちに、気付けば、その場に立ち尽くしていた。
ここは阪急三宮駅前の通称「パイ山」という広場。待ち合わせの場所として有名なここは、夕方にもなるとたくさんの人が集まってくる。

そんな場所も、こんな早朝では鳩のたまり場になっている。

頭がボーッとしてくる。
寝てないしな、それに・・・。

スーツのポケットが震えた。
携帯を開いてすぐ、自分の顔に笑みが浮かぶのがわかった。

『差出人:綾子
 件 名:うげぇ、6時にもなってない!
 内 容:んもっ! せっかくの休日なのになんか目ぇ覚めちゃった! 寝苦しい~。腹立つ~! 腹立ったのでショウちゃん起こしたれって思ったからメールしました。昨日は飲み会やったんやんね? どうやった? モテた? まさか今、クルクル回るベッドにおったりせんやろね? 許さんぞ!』


メール。

これも、綾子がいなかったら覚えなかった。

出会ったとき、携帯電話を持っていないオレに驚いた綾子は、オレをそのまま店に連れて行った。
必要な書類も持たないオレがあっさりと新しい電話を持てたのも、店員が綾子の知り合いだったからだ。

そのあと入ったカフェ、またカフェだ。そこでオレは綾子から本当に手取り足取り、指まで持たれて携帯の使い方を教わった。綾子と同じ携帯だったから、その後も何度も使い方について質問して、ようやくたどたどしくはあるけれど、人並みに使えるようになった。絵文字にも果敢に挑戦した。

携帯を使えるようになればなるほど、なんだか自分が新しくなっているような気がして、だからオレも必死になって使い方を覚えた。


仕事が早く終わったので、綾子を飲みに誘おうとメールを打っていたとき、文章の最後にビールで乾杯している絵文字を使った方が良いのか、カクテルの絵文字を使った方が良いのかについて悩んでいるときに、携帯が鳴った。

マサキさんからだった。


◇──◇


「最後の仕事だ」とマサキさんは言った。

分別はあるし、筋を重んじるマサキさんは、オレに「整理屋」としての最後の仕事を任せた。

簡単な仕事だった。
海外からの不法滞在者で、「夏日の鳩」というクスリを売っていた人間が、勝手に別ルートにモノを流し始めた。鞍替えだ。許されるものではない。

だからオレは昨日、そいつを“整理する”ため、建築事務所での仕事が終わってから、小林の誘いも断って元町に向かった。

不思議なもので、いざ「これで全部が終わる」と思っても何の感慨も湧かなかった。
あれほどまで自分のすべてだった世界、整理屋。あそこでなければ生きていけなかった世界なのに、未練は一切なかった。

だから目的地までの道中も、たとえば週明けの月曜日にまわる取引先をどういう順番で行けば効率的かとか、綾子の作るカレーのニンジンはちょっとデカすぎるから言わないといけないなとか、通りかかった知らないカフェが良い感じだったから、綾子は知ってるのかな、今度綾子を連れていこうかなとか、そんなことを考えていた。

本当にギリギリまで。

トタンでできた、立て付けの悪いドアを蹴破る瞬間まで、オレはそんなことを考えていた。



大きな欠伸が出て、視界が滲む。
携帯電話はまだ、綾子のメールを表示していた。

寒い。
今日も間違いなく猛暑になる、そんな早朝なのに、寒い。

震える指で辛うじて『返信』を押す。

『宛先:綾子
 件名:Re:うげぇ、6時にもなってない!
 内容:おはよう。実はオレももう起きてるんだよ。綾子、とんでもなく早起きしたなぁ。実はワケあって、オレ、オールでさ、今三宮なんだけど、これから綾子んとこ行っていい? 面白い話があるんだ』


送信を完了し、歩き出す。

こんなメールを送ってしまった以上、“面白い話”をでっち上げなくてはいけないなぁ。


オレはまだ、「そんなこと」を考えていた。


足が重い。どんどん重たくなってくる。
左足にはもうほとんど感覚がない。

「しまったなぁ」と呟いてみて虚しい。

弾丸はオレの左腹部に飛び込んで、皮膚だとか腸だとかをねじりながら、えぐりながら飛び出していった。


既にワイシャツは真っ赤に染まっていて、腹に空いた穴からは勢いよく血が流れている。
それが感覚のない左足を伝って、地面に。
振り返ると、石畳に真っ赤な線が引かれていた。

「綾子…」

視界が滲む。いや、霞む。
今度は欠伸のせいじゃなかった。


ドアを蹴破って飛び込んだ部屋。

待ち受けていたように粗悪な銃をこちらに向けるマレーシア人だかフィリピン人だか。
いつもならそんなことまで予想済みのオレの頭が直前まで考えていたのは綾子と旅行でもどうだろうということだった。

だからオレは自分に向けられた銃の意味が一瞬だけわからなかった。

外人の、爪の間まで汚れた、震える指が、引き金を引いたのと同じタイミングで、ようやく、初めて「しまった」と思った。

それでは、もう遅かったのである。



三宮、パイ山。鳩のたまり場。
パイ山の真ん中辺りまで辿り着いたけれど、ついに右足からも感覚がなくなったオレはそのまま倒れ込んだ。


「あやこ…あやこ…」

他に何の言葉も出てこない。

明日になれば…。

明日になれば本当に普通の生活が、手に入るはずだった。

小林の会社で得意先を回ったり、最近少しずつできるようになったブラインドタッチで書類を作ったり、同僚の三池くんが釣ったとかいう魚の写真ばかり見せられて困ったり、「キャバクラってどんなとこっすか?」ばかり言ってくる太田の頭を殴ったり。

汚いワンルームに戻るのがイヤだったら、会社終わりの綾子と待ち合わせて、東急ハンズの向かいにできたイタリア料理店に行けばよかった。最近ホワイトソースのパスタの味がわかってきたから、そこのパスタを食べるのは楽しみだった。最近免許を取った綾子の運転でもいい。絶対に初心者マークを貼りたがる綾子と「それは逆にナメられる」と言うオレが一悶着起こしたりして、それでも最終的には綾子の言い分が通って…それでもいい。

本当に、それだけでいいのに。

左の腹に空いた取り返しのつかない穴から、血液と、体温と、命と、やっと手にした普通の生活が流れ出ていく。

地面に這いつくばるオレの顔の前を鳩がカクカクと通り過ぎていく。

そうか…

さっき鳩を蹴ることができた理由がわかった。
こいつら、もうオレのことを生きてると思ってないんだ。

「頼むよ…おい」

癇に障る鳩と、そんな鳩を酔っぱらいながら作った神様にお願いする。

「もう一回だけ、チャンスを下さい…」

涙がどんどん溢れてくる。

ブーンブーンという音がした。
見ると、倒れるときに落とした携帯電話が石畳の上で震えていた。

綾子だ…

手を伸ばす。
届かない。体は全く動かない。

「頼む…綾子なんだよ…頼むよ、綾子なんだ…」

携帯に、新しい自分の人生の証に、必死に手を伸ばす。
腹の穴が引きつり、焼けるような痛みが全身に走る。冷や汗が爆発するように吹き出すのを我慢しながら、携帯電話に手を伸ばす。やがて指先がストラップに引っかかり、そのまま電話を引き寄せる。
「オレの…携帯…」

激痛の駆け巡る体を起こして、ゴミ箱のような花壇にもたれながら通話ボタンを押す。

「もしもし」と言ったつもりが、喉が声を出さない。

「もしもし?」

受話口から綾子の声がした。オレは思わず微笑んでしまって、涙腺が緩んでしまって、それから、家に着いたら話すと約束した「面白い話」についてまだ何も考えてないことに気づいて、そうしてようやく、そんな自分の目の前に、男が立っていて、自分に銃口を向けていることに気づいたのである。

「マサキさん…」

目の前でマサキさんが無表情でオレに銃口を向けている。
電話口の向こうからは、綾子が楽しそうな口調で何かを言っていた。

「お前、落ちたよな」

仕事をしくじった。だから殺される。整理屋の簡単すぎるルール。
そのとき整理屋は、身元がわからないように、顔を吹き飛ばされる。

オレは、ネクタイが汚れるのがいやだった。今さら。

綾子が選んでくれたネクタイ。それが汚されるのだけはいやだったから、オレはネクタイの結び目に指をかけた、だけどそれを待たずに、マサキさんは躊躇なくオレに引き金を引いた、銃声は早朝の三宮に鳴り響き、広場にいた鳩が全て空に飛び立ったのを合図に、普通の生活を夢見た整理屋が1人、顔面を吹き飛ばされて無様に死んだ。

それを知らない1人の女性がさっきからずっと、ずっと恋人を呼び続けている。その声は、早朝の神戸、三宮の広場で倒れている、顔面を失った男が、力なく握りしめている携帯電話から、何度も何度も伝えられているけれど、誰にも気づかれることはない。

そうしてそのままじりじりと、男が横たわる地面の温度が上がりはじめる。
ごく普通の生活に憧れた1人の男が簡単に殺されたその日、神戸はその夏一番の真夏日を記録した。

(了)



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