短編:『アンナ・ブルー』
そのレストランは、店内奥が全面ガラス張りになっていて、神戸の夜景がまるで一枚の壁紙のように見えることで有名だった。今日はあいにく雨だったけど、それでも窓硝子に吹き付ける雨粒が、街のネオンを拡散させて、夜景をまるで抽象画のように見せてくれている。
絶景だった。
特等席に腰かけた僕らは、誰もがそうするようにしばらくその夜景に見とれた。サオリはうっとりと窓の向こうを見つめている。彼女からはかすかに香水が匂う。ロマンチストとはほど遠い僕は、この景色を「綺麗」と称する以外の言葉を持ち合わせていなかったので、ずっと黙っていた。店内にはジャズが静かに流れ、その遠くからはほんの遠慮がちにノイズのような雨音が流れてくる。
僕たちの時間はまるで止まってしまい、サオリはただ黙って窓の向こうを見つめていた。
「最高」
やがてその小さな唇から不注意のようにこぼれた言葉を合図に、時間は動き始める。
「気に入った?」
「うん」
視線をこちらに向けずに答える仕草がまた、様になっている。勿論僕は彼女のそういった仕草があまり好きではない。
「食前酒をお持ちいたしました」
顔を上げると、僕と同い年ぐらいの男性が銀の盆に小さなシャンパングラスを2つ載せて立っていた。背筋は伸び、凛としている。
「ポメリー・ロゼ・シャンパンと、イタリアのブラッド・オレンジでございます」
給仕は、滑らかな舌で紹介しながら、僕の前にシャンパンを、アルコールの飲めないサオリの前にはブラッド・オレンジを静かに置いた。真っ赤なオレンジジュース、「ブラッド・オレンジ」だなんて、洒落てる。
「ありがとう」
最小の音量で礼を言うと、給仕は静かに立ち去った。それを見届けたあと、僕らは何も言わずにグラスを重ねた。
「『カフェ・ド・パリ』だね」
オレンジジュースに口を付けながら、サオリは呟く。さっきの映画を思い出しているらしい。
「アンナを気取るにはちょっと身長が足りないんじゃないか?」
僕の言葉に頬を膨らませながら、サオリは飽きもせず夜景に視線を走らせた。
「素敵な映画だったと思わない?」
「そうだね」
正直なところ、退屈な映画だった。でもそんなこと言ってしまえば、彼女の機嫌を損ねるに決まってる。
僕らが見たのはフランス映画、シネ・リーブルで2週間だけ上映されるような、無名の監督による注目もされない映画だった。でも、フランス憧れの強いサオリは、めざとくそれを見つけ、「絶対にこれが見たい」と譲らなかった。僕は封切られたばかりの人気ハリウッド映画の続編を見たかったけど、深夜番組で前売券まで手に入れてきたサオリの熱意にすんなりと折れた。
恋愛映画だった。ピエールとアンナという高校生カップルがシャンゼリゼをデートしているところに魅惑的な人妻エルザが現れる。ピエールはエルザに、アンナにはない大人の魅力を感じ、没頭してしまう。エルザもまた、ピエールの蒼い瞳に若かりし頃の叶わぬ恋愛を思い出し、熱く燃える。ピエールの心変わりを感じたアンナは、単身エルザの家に乗り込むが、その屋根裏で彼女は、一糸まとわぬ姿で愛し合うエルザとピエールの姿を目撃する。ここでアンナの怒りは屈折しながら頂点に達し、彼女は突如、衣服の全てを脱ぎ去って、絡み合う二人の間に「参戦」するのである。さすがにここは笑ってしまったけれど、サオリは表情1つ変えずにひたすらスクリーンを見つめ続けていた。
「エンディングはちょっと気に入らなかったかも」
少々意気込んでサオリは吐き出した。エンディングだけ?ボクは首を傾げる。
エンディングもまぁ、確かに酷かった。ピエールのエルザに対する気持ちを痛いぐらいに思い知ったアンナは彼に別れを切り出すため、行きつけの『カフェ・ド・パリ』に向かう。しかしそこに現れたのは、エルザに飽きられ、あっさりと捨てられてしまった傷心のピエールだった。二人は互いの愛こそ真実であると気付き、手を取り合い、なぜか、スキップでシャンゼリゼ通りの彼方に消えていきながらのエンドロール。
「まぁ、あのスキップはないわな」
「スキップもそうだけど、元に戻るってのは納得いかない」
サオリは口を尖らせて溜息をつく。
「なんで?」
「だって、あれだけドロドロしたのに、元に戻るなんてあり得ないよ。男女の描写が甘いって」
オレンジジュースに頬を染めながらサオリは拳を振っている。
「サオリならどんなエンディングにした?」
「う~んとねぇ、ピエールが『もう一度やり直そう』って言うんだけど、アンナはそれに答えないで、破局。ピエールはそのまま酒とクスリに溺れながら、毎晩アンナに手紙を書き続けるって感じかな」
人さし指を伸ばしながら、サオリは得意げに喋っている。
「なに?ピエールの人生破滅なの?たかだか高校生で?」
「そういう言い方は辞めて、嫌い」
わかってる。わざとだよ。胸の中でそう呟きながら、小さく詫びて、煙草に火をつけた。
「煙草って美味しいの?」
仕草を見るや否や、嫌悪の表情を浮かべるサオリ。
「美味しくないよ。味はまずい。でも辞められない」
「信じられない。不味いなら辞めればいいのに」
鼻で笑うように言う。僕は彼女のそういった仕草が好きじゃない。
「味を楽しむモノじゃないからね」
「じゃあ何を?」
「吸えない人には分からないよ」
間髪入れず、僕の煙草に伸ばされた手を、払う。サオリは何か言いかけたけれど、上品に登場した給仕を見て口を閉じた。
「水牛のモッツァレラチーズとトマトのサラダです」
「水牛って…牛?」
ダイエットを始めたサオリは肉料理にやたらとうるさい。しかし、テーブルに載せられた皿を見る分に、肉の姿は見当たらない。
「水牛のミルクを使ってモッツァレラチーズを作っています」
給仕は的確に答えながらも、納得したように大きく頷き、上品に笑うサオリを見て、一瞬の当惑を浮かべた。当然のことだ。
「ありがとう」
首を傾げながら立ち去る給仕に声をかけ、しばらく二人は目の前の皿と格闘した。とかくトマトのスライスをフォークで食べるというのは至難の業である。苦労しながらも何とかトマトでチーズを包む。押さえた状態でフォークを差し込みようやく口に運ぶ。味は、やはりというか、絶品だ。「うふ~ん」と言いながら向かいを見ると、サオリはまだ悪戦苦闘中だった。既にトマトはぐちゃぐちゃに潰れ、果肉が皿に広がっている。それでもなんとか僕と同じことをしようと必死で、僕の視線にも気付かない。
「大丈夫?」
「心配ありがとう、でも大丈夫」
気丈を装ってはいるけれど、とても大丈夫には見えない。
「箸もらう?」
「何言ってるの?テーブルマナーの基本でしょ?」
溜息がでた。
「そういうのはちゃんとできてから言えよ。最近じゃ箸を使うのもマナー違反にはならないよ。皿をグチャグチャにしてしまう方がよっぽどマナー違反だと思うけどね。さぁ、呼ぶよ」
「いやっ!」
突然の大声。周囲は何事かとこっちを見る。ボクは周囲に会釈を返す。
「ほら、あの人見てごらん、箸使ってるだろ?」
店内奥に、こちらを見ることなく淡々と食事を続ける老夫婦がいる。見るからに、こういった場所には慣れていると思しき二人は、二人とも箸を使って料理を食べていた。
「ホントだ」
「だろ?マナーってのは食事を楽しむためにあるモノで、食事を楽しめないマナーなんて、採用するべきじゃない」
僕はそういいながら手を上げる。すぐに飛んできた給仕に箸を頼むと、割り箸ではなく、銀の箸が届けられた。
「箸を頼む人も少なくないみたいだね」
僕の言葉に微笑みながら、最初の一口をようやく口に放り込んだサオリは、その味にようやく表情を緩めた。
「おいしい!」
結局彼女は僕よりも早く前菜を平らげてしまった。まったく気を遣わせる。サオリにかける一言一言を選ぶのに今日一日で随分疲れた。
それからはお互い大した会話もしないまま、ただひたすら食べ続けた。料理はどれも絶品で、申し分なく、とくにメインの「キンメダイと季節野菜の取り合わせ」を食べたときは、そのあまりの美味しさに二人で気味悪く笑った。
コトは、食後の珈琲を飲んでいたときに起こった。
アイス珈琲を吸い上げて、ストローから口を離した瞬間、なんの前触れもなくサオリがあの話を切り出したのだ。
「で、考えてくれた?」
きた。正直このままこの話題に触れなくて済めばいいと思っていたのだけれど、やはりそうはいかないらしい。
「なにを?」
「『なにを?』じゃないわよ、付き合ってくれるの?わたしと」
ストローで珈琲をかき回しながら、さも「大した話題じゃないけれど」といったふうに話を振るサオリ。イヤな感じだ。僕は昨日から既に用意していた言葉を取り出そうとする。「好きな人がいる」と言えば、全て終わることだ。実際にそんな人はいないけど。
「ちょっとぉ、そんな緊張しないでよ、らく~にしてよぉ」
サオリが鼻で笑いながら、オレンジジュースに口を付けるのを見た瞬間、たぶん僕はある意味キレてしまったんだと思う。
苛立ったわけではない、なぜここまで気を遣わなければいけないのか、とむしろ力が抜けた。「後腐れなく、お互い気持ちよく」と言ってみても、気持ちいいのはたぶんサオリだけで、僕はきっとあとからなんか煮え切らないモノをずっと抱えなきゃいけなくなるに違いない。
気付けばさらっとそんなことを言ってた。サオリは笑っている真っ最中で、その笑顔が本当にそのまま固まってしまうのを見て「凍り付いたように」という表現はホントに的確だと感心できてしまうほど、僕は逆に冷静になっていた。
「なんで…」
目を見開きながら、極めて辛うじてといった感じでサオリは呟く。傷つけないようにと心がけたせいで、こちらがしんどくなるのはもうゴメンだ。サオリは、きっと今までの僕のそういった苦労を全く知らないだろうし。むしろ僕に付き合ってあげてるぐらいの気持ちでいただろう。
「なんで…って、別に、そういう風に見てないし、これからも見るつもりもないし」
無理して考えてきた言葉と比べて、本音は実にスラスラと僕の口をすべってくる。
もちろんこの一言でサオリも怒った。上品なレストランのお陰で大声こそ上げないけれど、絞り出すように潜めた声で、サオリは喚いた。
さらっと言い返す。
「ひ、ひどい…」
唐突にサオリは泣き出した。でも僕はその姿を見て、またも腹が立ってしまった。その言い返し方も、泣き出す姿も、全てがテレビドラマのように嘘くさくて馬鹿馬鹿しかったからだ。「泣くなよ」とかそういう言葉はかけない。そういう言葉を待っているとわかるから。
「『子供扱いしないで』って言ったでしょ」
しゃくり上げながらそう呟く姿はもう哀れだった。
「たしかにね、ここまで持ち上げといて急に突き落とすような真似をしたのは、僕が悪い。でも、もう耐えられない。ママゴトはこれで終わり」
『ママゴト』という単語に反応して、僕をきっと睨み付けると、サオリは唸るような声で話し始めた。
「だって仕方ないじゃん、早く大人になりたいけど、急いだって大人になれないもん。クラスの人達はみんな馬鹿みたいに子供で、男子なんて休み時間にドッヂボールしてれば幸せで、女の子たちだって好きな人の話してても、聞いてみれば『足が速いから』とか言う人ばっかりで、イヤだけどその中で生活しないといけないんだもん、このツラさ分かる?」
目に涙を溜めて訴えるサオリ、その姿はやはり紛れもなく正真正銘10歳の小学生だ。駐車場の車には彼女が忌み嫌う学校指定のランドセルが載っている。大人になることにばかり憧れる彼女にとって、毎日通う小学校は辱めの空間でしかないのかもしれない。でも、それは間違っている。
「お前のツラさなんてわからないし、分かろうとも思わない」
冷たく言い放てば、すぐにしぼんでしまう。聡明な頭の中で、色々な反論を考えているのが分かるけど、僕はもう、考える時間も与えない。
「というか、オレはドッヂボールを心から楽しんでいる男子や、『足が速い人が好き』と言える女子の方がある意味でお前より大人だと思う」
「な…」
「だってさ、彼らは自分たちが小学生だということを分かっているし、それを認めてる。少なくともお前みたいに、どうしようもない事態に対してぶつくさ不平を言ったり、闇雲に現状を恨んでいる人よりは大人だと思う」
反論する暇も与えずに畳みかける間、サオリは下唇を強く噛んで僕の眼を睨み付けていた。
「なんであんな人達が私より大人なの?あんな人達はフランス映画なんか見ないし、こんなところで食事だってしないよ。香水だって知らない。私は、あの人達が知らないことを知ってる。なのになんであの人達の方が大人なの?」
震える声を絞り出すサオリは、なんだか小さく見えて、僕もやっぱり罪を背負ってるなと気付く。だからこそ、今、しっかり言っておかないといけない。
「大人はね、『大人になりたい』だなんて考えないんだよ。大人に憧れるのは子供の特徴だ。『喫茶店に1人で入れるなんて、大人だね』ってことは子供しか言わない。『喫茶店に1人で入れるなんて、大人だね』なんてことを言わなくなって初めて大人と呼ばれる。手の届かない物に憧れ続けるのは子供にしか与えられていない特権だからね」
少し間をおいてみるけれど、言い返してくる気配はない。
「それに、そもそも、大人が子供より勝っているなんて考え方が、僕は子供っぽいと思う」
サオリが一瞬眉間に皺を寄せる。こういう時でもきちんと話を聞くのは数少ない彼女の良いところだ。
「例えば僕たちは、もう集まってドッヂボールを投げ合うコトなんて出来ない。そもそもそんな人数が集まるコトなんて出来ない。大人は子供よりもたくさんのことが出来るなんてのは幻想だよ。確かに、大人って呼ばれる人は、お前にはできないことをしてる。でも、その分お前らに出来ていることが出来なくなってる」
「ドッヂボールなんて、できなくていい」
「それは今のお前にできることだからだよ。僕だってこんなところで食事なんてしなくても良いし、フランス映画だって見なくてもいい」
シャンパンを一口。
「今しかできないことに熱中できるのは、素晴らしいことだと思う。今しかできないことを馬鹿にして、いつか当たり前になることに憧れ続ける、それは馬鹿馬鹿しいことだと思う。香水だって、フランス映画だって、夜景の綺麗なレストランだって、年を取れば別に珍しいことでもなんでもないのに、必死にそればかり追いかけてる姿は見ていて気持ちいいものじゃないよ」
すっかり気迫を失ったサオリは黙って俯いている。
「僕は、そんなサオリに恋愛対象としての魅力を感じない。だから付き合わない」
結局サオリは何も言わず、テーブルは沈黙に支配された。
聡明なサオリのことだ、僕の言いたいことを理解するだろう。そしていつか今日見た映画の、手をつなぎながらスキップしていくアンナとピエールを再び見る機会があったとしたら、その時はサオリも思うだろう、これもハッピーエンドなのだ、と。
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絶景だった。
特等席に腰かけた僕らは、誰もがそうするようにしばらくその夜景に見とれた。サオリはうっとりと窓の向こうを見つめている。彼女からはかすかに香水が匂う。ロマンチストとはほど遠い僕は、この景色を「綺麗」と称する以外の言葉を持ち合わせていなかったので、ずっと黙っていた。店内にはジャズが静かに流れ、その遠くからはほんの遠慮がちにノイズのような雨音が流れてくる。
僕たちの時間はまるで止まってしまい、サオリはただ黙って窓の向こうを見つめていた。
「最高」
やがてその小さな唇から不注意のようにこぼれた言葉を合図に、時間は動き始める。
「気に入った?」
「うん」
視線をこちらに向けずに答える仕草がまた、様になっている。勿論僕は彼女のそういった仕草があまり好きではない。
「食前酒をお持ちいたしました」
顔を上げると、僕と同い年ぐらいの男性が銀の盆に小さなシャンパングラスを2つ載せて立っていた。背筋は伸び、凛としている。
「ポメリー・ロゼ・シャンパンと、イタリアのブラッド・オレンジでございます」
給仕は、滑らかな舌で紹介しながら、僕の前にシャンパンを、アルコールの飲めないサオリの前にはブラッド・オレンジを静かに置いた。真っ赤なオレンジジュース、「ブラッド・オレンジ」だなんて、洒落てる。
「ありがとう」
最小の音量で礼を言うと、給仕は静かに立ち去った。それを見届けたあと、僕らは何も言わずにグラスを重ねた。
「『カフェ・ド・パリ』だね」
オレンジジュースに口を付けながら、サオリは呟く。さっきの映画を思い出しているらしい。
「アンナを気取るにはちょっと身長が足りないんじゃないか?」
僕の言葉に頬を膨らませながら、サオリは飽きもせず夜景に視線を走らせた。
「素敵な映画だったと思わない?」
「そうだね」
正直なところ、退屈な映画だった。でもそんなこと言ってしまえば、彼女の機嫌を損ねるに決まってる。
僕らが見たのはフランス映画、シネ・リーブルで2週間だけ上映されるような、無名の監督による注目もされない映画だった。でも、フランス憧れの強いサオリは、めざとくそれを見つけ、「絶対にこれが見たい」と譲らなかった。僕は封切られたばかりの人気ハリウッド映画の続編を見たかったけど、深夜番組で前売券まで手に入れてきたサオリの熱意にすんなりと折れた。
恋愛映画だった。ピエールとアンナという高校生カップルがシャンゼリゼをデートしているところに魅惑的な人妻エルザが現れる。ピエールはエルザに、アンナにはない大人の魅力を感じ、没頭してしまう。エルザもまた、ピエールの蒼い瞳に若かりし頃の叶わぬ恋愛を思い出し、熱く燃える。ピエールの心変わりを感じたアンナは、単身エルザの家に乗り込むが、その屋根裏で彼女は、一糸まとわぬ姿で愛し合うエルザとピエールの姿を目撃する。ここでアンナの怒りは屈折しながら頂点に達し、彼女は突如、衣服の全てを脱ぎ去って、絡み合う二人の間に「参戦」するのである。さすがにここは笑ってしまったけれど、サオリは表情1つ変えずにひたすらスクリーンを見つめ続けていた。
「エンディングはちょっと気に入らなかったかも」
少々意気込んでサオリは吐き出した。エンディングだけ?ボクは首を傾げる。
エンディングもまぁ、確かに酷かった。ピエールのエルザに対する気持ちを痛いぐらいに思い知ったアンナは彼に別れを切り出すため、行きつけの『カフェ・ド・パリ』に向かう。しかしそこに現れたのは、エルザに飽きられ、あっさりと捨てられてしまった傷心のピエールだった。二人は互いの愛こそ真実であると気付き、手を取り合い、なぜか、スキップでシャンゼリゼ通りの彼方に消えていきながらのエンドロール。
「まぁ、あのスキップはないわな」
「スキップもそうだけど、元に戻るってのは納得いかない」
サオリは口を尖らせて溜息をつく。
「なんで?」
「だって、あれだけドロドロしたのに、元に戻るなんてあり得ないよ。男女の描写が甘いって」
オレンジジュースに頬を染めながらサオリは拳を振っている。
「サオリならどんなエンディングにした?」
「う~んとねぇ、ピエールが『もう一度やり直そう』って言うんだけど、アンナはそれに答えないで、破局。ピエールはそのまま酒とクスリに溺れながら、毎晩アンナに手紙を書き続けるって感じかな」
人さし指を伸ばしながら、サオリは得意げに喋っている。
「なに?ピエールの人生破滅なの?たかだか高校生で?」
「そういう言い方は辞めて、嫌い」
わかってる。わざとだよ。胸の中でそう呟きながら、小さく詫びて、煙草に火をつけた。
「煙草って美味しいの?」
仕草を見るや否や、嫌悪の表情を浮かべるサオリ。
「美味しくないよ。味はまずい。でも辞められない」
「信じられない。不味いなら辞めればいいのに」
鼻で笑うように言う。僕は彼女のそういった仕草が好きじゃない。
「味を楽しむモノじゃないからね」
「じゃあ何を?」
「吸えない人には分からないよ」
間髪入れず、僕の煙草に伸ばされた手を、払う。サオリは何か言いかけたけれど、上品に登場した給仕を見て口を閉じた。
「水牛のモッツァレラチーズとトマトのサラダです」
「水牛って…牛?」
ダイエットを始めたサオリは肉料理にやたらとうるさい。しかし、テーブルに載せられた皿を見る分に、肉の姿は見当たらない。
「水牛のミルクを使ってモッツァレラチーズを作っています」
給仕は的確に答えながらも、納得したように大きく頷き、上品に笑うサオリを見て、一瞬の当惑を浮かべた。当然のことだ。
「ありがとう」
首を傾げながら立ち去る給仕に声をかけ、しばらく二人は目の前の皿と格闘した。とかくトマトのスライスをフォークで食べるというのは至難の業である。苦労しながらも何とかトマトでチーズを包む。押さえた状態でフォークを差し込みようやく口に運ぶ。味は、やはりというか、絶品だ。「うふ~ん」と言いながら向かいを見ると、サオリはまだ悪戦苦闘中だった。既にトマトはぐちゃぐちゃに潰れ、果肉が皿に広がっている。それでもなんとか僕と同じことをしようと必死で、僕の視線にも気付かない。
「大丈夫?」
「心配ありがとう、でも大丈夫」
気丈を装ってはいるけれど、とても大丈夫には見えない。
「箸もらう?」
「何言ってるの?テーブルマナーの基本でしょ?」
溜息がでた。
「そういうのはちゃんとできてから言えよ。最近じゃ箸を使うのもマナー違反にはならないよ。皿をグチャグチャにしてしまう方がよっぽどマナー違反だと思うけどね。さぁ、呼ぶよ」
「いやっ!」
突然の大声。周囲は何事かとこっちを見る。ボクは周囲に会釈を返す。
「ほら、あの人見てごらん、箸使ってるだろ?」
店内奥に、こちらを見ることなく淡々と食事を続ける老夫婦がいる。見るからに、こういった場所には慣れていると思しき二人は、二人とも箸を使って料理を食べていた。
「ホントだ」
「だろ?マナーってのは食事を楽しむためにあるモノで、食事を楽しめないマナーなんて、採用するべきじゃない」
僕はそういいながら手を上げる。すぐに飛んできた給仕に箸を頼むと、割り箸ではなく、銀の箸が届けられた。
「箸を頼む人も少なくないみたいだね」
僕の言葉に微笑みながら、最初の一口をようやく口に放り込んだサオリは、その味にようやく表情を緩めた。
「おいしい!」
結局彼女は僕よりも早く前菜を平らげてしまった。まったく気を遣わせる。サオリにかける一言一言を選ぶのに今日一日で随分疲れた。
それからはお互い大した会話もしないまま、ただひたすら食べ続けた。料理はどれも絶品で、申し分なく、とくにメインの「キンメダイと季節野菜の取り合わせ」を食べたときは、そのあまりの美味しさに二人で気味悪く笑った。
コトは、食後の珈琲を飲んでいたときに起こった。
アイス珈琲を吸い上げて、ストローから口を離した瞬間、なんの前触れもなくサオリがあの話を切り出したのだ。
「で、考えてくれた?」
きた。正直このままこの話題に触れなくて済めばいいと思っていたのだけれど、やはりそうはいかないらしい。
「なにを?」
「『なにを?』じゃないわよ、付き合ってくれるの?わたしと」
ストローで珈琲をかき回しながら、さも「大した話題じゃないけれど」といったふうに話を振るサオリ。イヤな感じだ。僕は昨日から既に用意していた言葉を取り出そうとする。「好きな人がいる」と言えば、全て終わることだ。実際にそんな人はいないけど。
「ちょっとぉ、そんな緊張しないでよ、らく~にしてよぉ」
サオリが鼻で笑いながら、オレンジジュースに口を付けるのを見た瞬間、たぶん僕はある意味キレてしまったんだと思う。
苛立ったわけではない、なぜここまで気を遣わなければいけないのか、とむしろ力が抜けた。「後腐れなく、お互い気持ちよく」と言ってみても、気持ちいいのはたぶんサオリだけで、僕はきっとあとからなんか煮え切らないモノをずっと抱えなきゃいけなくなるに違いない。
「お前と付き合う気はない」
気付けばさらっとそんなことを言ってた。サオリは笑っている真っ最中で、その笑顔が本当にそのまま固まってしまうのを見て「凍り付いたように」という表現はホントに的確だと感心できてしまうほど、僕は逆に冷静になっていた。
「なんで…」
目を見開きながら、極めて辛うじてといった感じでサオリは呟く。傷つけないようにと心がけたせいで、こちらがしんどくなるのはもうゴメンだ。サオリは、きっと今までの僕のそういった苦労を全く知らないだろうし。むしろ僕に付き合ってあげてるぐらいの気持ちでいただろう。
「なんで…って、別に、そういう風に見てないし、これからも見るつもりもないし」
無理して考えてきた言葉と比べて、本音は実にスラスラと僕の口をすべってくる。
もちろんこの一言でサオリも怒った。上品なレストランのお陰で大声こそ上げないけれど、絞り出すように潜めた声で、サオリは喚いた。
「やっぱり!私のこと、子供としか見てないんでしょ!」
「だってお前は子供じゃないか」
「ひ、ひどい…」
唐突にサオリは泣き出した。でも僕はその姿を見て、またも腹が立ってしまった。その言い返し方も、泣き出す姿も、全てがテレビドラマのように嘘くさくて馬鹿馬鹿しかったからだ。「泣くなよ」とかそういう言葉はかけない。そういう言葉を待っているとわかるから。
「『子供扱いしないで』って言ったでしょ」
しゃくり上げながらそう呟く姿はもう哀れだった。
「たしかにね、ここまで持ち上げといて急に突き落とすような真似をしたのは、僕が悪い。でも、もう耐えられない。ママゴトはこれで終わり」
『ママゴト』という単語に反応して、僕をきっと睨み付けると、サオリは唸るような声で話し始めた。
「だって仕方ないじゃん、早く大人になりたいけど、急いだって大人になれないもん。クラスの人達はみんな馬鹿みたいに子供で、男子なんて休み時間にドッヂボールしてれば幸せで、女の子たちだって好きな人の話してても、聞いてみれば『足が速いから』とか言う人ばっかりで、イヤだけどその中で生活しないといけないんだもん、このツラさ分かる?」
目に涙を溜めて訴えるサオリ、その姿はやはり紛れもなく正真正銘10歳の小学生だ。駐車場の車には彼女が忌み嫌う学校指定のランドセルが載っている。大人になることにばかり憧れる彼女にとって、毎日通う小学校は辱めの空間でしかないのかもしれない。でも、それは間違っている。
「お前のツラさなんてわからないし、分かろうとも思わない」
冷たく言い放てば、すぐにしぼんでしまう。聡明な頭の中で、色々な反論を考えているのが分かるけど、僕はもう、考える時間も与えない。
「というか、オレはドッヂボールを心から楽しんでいる男子や、『足が速い人が好き』と言える女子の方がある意味でお前より大人だと思う」
「な…」
「だってさ、彼らは自分たちが小学生だということを分かっているし、それを認めてる。少なくともお前みたいに、どうしようもない事態に対してぶつくさ不平を言ったり、闇雲に現状を恨んでいる人よりは大人だと思う」
反論する暇も与えずに畳みかける間、サオリは下唇を強く噛んで僕の眼を睨み付けていた。
「なんであんな人達が私より大人なの?あんな人達はフランス映画なんか見ないし、こんなところで食事だってしないよ。香水だって知らない。私は、あの人達が知らないことを知ってる。なのになんであの人達の方が大人なの?」
震える声を絞り出すサオリは、なんだか小さく見えて、僕もやっぱり罪を背負ってるなと気付く。だからこそ、今、しっかり言っておかないといけない。
「大人はね、『大人になりたい』だなんて考えないんだよ。大人に憧れるのは子供の特徴だ。『喫茶店に1人で入れるなんて、大人だね』ってことは子供しか言わない。『喫茶店に1人で入れるなんて、大人だね』なんてことを言わなくなって初めて大人と呼ばれる。手の届かない物に憧れ続けるのは子供にしか与えられていない特権だからね」
少し間をおいてみるけれど、言い返してくる気配はない。
「それに、そもそも、大人が子供より勝っているなんて考え方が、僕は子供っぽいと思う」
サオリが一瞬眉間に皺を寄せる。こういう時でもきちんと話を聞くのは数少ない彼女の良いところだ。
「例えば僕たちは、もう集まってドッヂボールを投げ合うコトなんて出来ない。そもそもそんな人数が集まるコトなんて出来ない。大人は子供よりもたくさんのことが出来るなんてのは幻想だよ。確かに、大人って呼ばれる人は、お前にはできないことをしてる。でも、その分お前らに出来ていることが出来なくなってる」
「ドッヂボールなんて、できなくていい」
「それは今のお前にできることだからだよ。僕だってこんなところで食事なんてしなくても良いし、フランス映画だって見なくてもいい」
シャンパンを一口。
「今しかできないことに熱中できるのは、素晴らしいことだと思う。今しかできないことを馬鹿にして、いつか当たり前になることに憧れ続ける、それは馬鹿馬鹿しいことだと思う。香水だって、フランス映画だって、夜景の綺麗なレストランだって、年を取れば別に珍しいことでもなんでもないのに、必死にそればかり追いかけてる姿は見ていて気持ちいいものじゃないよ」
すっかり気迫を失ったサオリは黙って俯いている。
「僕は、そんなサオリに恋愛対象としての魅力を感じない。だから付き合わない」
結局サオリは何も言わず、テーブルは沈黙に支配された。
聡明なサオリのことだ、僕の言いたいことを理解するだろう。そしていつか今日見た映画の、手をつなぎながらスキップしていくアンナとピエールを再び見る機会があったとしたら、その時はサオリも思うだろう、これもハッピーエンドなのだ、と。
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