ボルト、誕生秘話。
ナイジェリアのとあるスラム街で、道に倒れ込んだ老婆が悲鳴を上げている。
「誰か! アイツを捕まえて! ひったくりよ!」
往来をしていた地元住民のアデジニ(32歳)がその声を聴いた時、彼のすぐ脇を風のように何かが走り去っていく。アデジニは咄嗟に踵を返して、今自分とすれ違っていった者を追おうとしたのだけれど、直後に自分の目を疑って立ちすくんだ。既に男の姿はアデジニの視界のどこにもなかったのである。アデジニの歩いてきた道は、真っ直ぐに長く、視界を遮るようなものは何もないのに、老婆の鞄をひったくった者の姿は、アデジニの世界から完全に消えていた。
「あのババア、全然カネ持ってねぇじゃねぇか」
ベンチに腰かけた男は、その長い腕をしなやかに振って、先ほどひったくってきたばかりの鞄を空き地に放り投げた。朽ちかけたベンチが一度軋んだ。
「腹減ったなぁ…」
男は空を見上げる。高い建物なんて一つもないスラム街。視界を遮るものは何もなく、空は円形に、青く広がっている。晴天に抱えられながら、それでも男は、蒼天の詩的な美しさに感動することなど全くなく、自身の空腹をどうやり過ごすかについて、思い巡らせていた。最も、多岐に渡って思いを巡らせられるほど、彼は理知的な男ではない。男は実に短絡的に「さて、もう一度ひったくるか」という結論に達し、次の獲物を探すべく、軋むベンチから腰を上げた。
「今、君は楽しいのかい?」
ふいに声がした。視線を向けると、錆びきったフェンスにもたれかかるように、見知らぬ中年の男が立っていた。一瞬、自分ではない誰かに声をかけたのかと思ったが、フェンスにもたれた中年男が、先ほど彼が放り投げた鞄を弄んでいるのを見て、その可能性を消した。
「なんだ?」
彼は、理知的ではなかったので、短絡的に下半身に力を込め、身体的にはいつでも逃走できる準備を調えていた。中年の男は、まるで彼の下半身に漲るエネルギーの流れを観察するかのように一度視線をずらしたあと、彼の目を真正面から見つめて、「大金持ちにならないか?」と言った。
その言葉は、まるで当たり前のように、そう、この国で「今日はとても暑いですね?」と言うのと同じくらい自然に、中年の男の口からこぼれ落ちたので、彼の頭の中では、意味を結ばなかった。
「君は大金持ちになりたくないのか?」
中年男は、もう一度同じ意味の言葉を、今度は疑問文にして投げかけてきた。
短絡的な彼は、「なりたいよ」と答えた。中年男は、安堵の表情を浮かべ、「それでいい、さぁ、大金持ちになろう」と言って近づいてきた。敵意は感じられなかった、ように思う。少なくとも、気付けば中年男は、彼の目の前に立ち、彼に手を差し伸べて「名前は?」と尋ねていた。
彼は、まるで阿呆のように、警戒することも忘れて、なんとなくその手を握り替えし、なんとなく名乗った。
「ウサイン・ボルトだ」
【数ヶ月後】
スカウトのヤラドゥア(42歳)によって見出され、陸上競技を始めたボルトは、地元大会を次々と制覇していった。
他のアスリート達は、ボルトの足元にも及ばなかった。人生のすべてを懸けて大会に挑んでくる選手達は、塵芥のようにボルトの前に蹴散らされ、消えていく。どれだけ練習を積んだ選手も、ボルトには敵わなかった。
もちろんボルトはタイムレコードにおいても、他の選手を圧倒していたけれど、他の選手が彼を前に戦意という戦意を全て失っていった理由は他にあった。
ボルトは、およそ練習という練習をしたことがなかったのである。
全く練習をせずに、昼前にベッドから起きてきて、そのまま会場に向かい、適当な柔軟運動をしただけでスタートポジションに入る。そしてそのまま、圧勝するのがボルト流だったのである。
「あぁ…ねむい」
道を歩きながら、ボルトは賞状を破り捨てて盾を放り投げた。
「こんなにも簡単にカネが稼げるとはね…で、ヤラドゥア。オレはいつになったら国際大会に出られるんだい?」
道ばたにガムを吐き捨ててから、隣を歩くヤラドゥアの顔を見る。大会キラーとなって小金を持つようになったボルトは、国内大会に飽きたらず、世界大会に出たいと何度も催促していたし、世界大会に出たとしても、同様に圧勝できる自信を持っていたにも関わらず、ヤラドゥアが一向に国際大会に出させてくれないことにいい加減ヤキモキしていた。
「あんただって分け前をハネられるんだ。さっさと世界の大会に出ようぜ」
大きめのジェスチャーで揚々と喋るボルトの顔を、ヤラドゥアは一度だけ見て、そして小さく笑った。
「あぁ、いいぜ、国際大会に出よう」
意外にもあっさりと許諾されたボルトは、なんとなく「いぇい」と呟いて、そのまま歩こうとした。しかしヤラドゥアの足は突然止まっていた。通りの途中。脇にはホームレスが寝転がっているような、どうにも中途半端な場所で、ヤラドゥアは足を止めた。
「その前に、条件がある」
「なんだ?」
「練習をしろ、ボルト」
ヤラドゥアはその、憎たらしい顔面に、憎たらしい笑顔を浮かべながらボルトに言った。練習をしろ、ヤラドゥアがボルトに何度も言ってきたことで、ボルトが何度も拒んできたことである。
「肩の凝る話は止めようぜ、ヤラドゥア。練習なんかしなくても、勝ってるじゃないか」
ボルトはいつものように、いつもの台詞を返す。退屈なやりとりは好きじゃなかったし、こんな中途半端な場所でする会話でもない。晴天の往来を歩く時の話題は冗談であればあるだけ良いし、夢があればあるだけ良い。
「あぁ、お前は確かに速い。でも、今のままでは世界大会じゃぁ勝てねぇ」
「ふんっ、ウソつけよ。アンタだってわかってんだろ、オレが神にギフトを与えられたランナーだってことをさ」
「あぁわかってる。でも神はな、増長する子羊を嫌うんだ」
「増長? 難しい言葉を使うなよ。勝ってるんだからややこしいことを言うなよ。オレの気分を害して、オレが走らないと言ったら、困るのはアンタだろう?」
ボルトは伝家の宝刀を抜いた気持ちになっていた。
ボルトが勝つことで、ヤラドゥアが儲かっている。ヤラドゥアはボルトを飼っているつもりかも知れないけれど、飼われているのはヤラドゥアの方だとボルトはいつも感じていた。それを今、口にしてやった。
「お前が走らなければ、コイツを走らせるさ」
不敵に笑うヤラドゥアの脇で、寝転がっていたホームレスがゆっくりと起き上がる。ヤラドゥアはポケットから取りだしたしわくちゃの紙幣を塊をホームレスに渡す。その額は、ホームレスが1ヶ月は過ごしていけるくらいの金額であると、ボルトは一瞬でわかった。
「なんだ、それ」
立ち上がったホームレスがボルトを見る。死んだような目で、ボルトを見ているのか、ボルトの方を見ているのかも分からない。精気は感じられなかった。
「ボルト、コイツと今、勝負しろ」
ホームレスは、ヤラドゥアの言葉を聞き終える前に、応対のど真ん中でクラウチングスタートのポーズをとった。
「コイツと勝負して勝ったら、明日にでも国を出てやる。その代わり、お前が負けたら、明日から1年間、オレの奴隷になってもらう、どうだ?」
ヤラドゥアに一瞥をくれて、視線をホームレスに戻す。
死んでるんじゃないか、そう思うほど、クラウチングスタートの格好をしたホームレスは動かなかった。その姿は滑稽で、哀れであった。
「わーったよ、やるよ。約束は守れよ」
ボルトはそう言いながら、いつも通り適当な柔軟運動をしながら、道の真ん中にまで進んでいき、ホームレスの隣でスタートのポーズを取った。饐えた匂いがした。つい先日まで、自分も同様の匂いを発していたかと思うと二種類の吐き気を催した。
「On Your Mark...(位置について)」
脇に立ったヤラドゥアが右手を挙げる。指先には煙草を挟んでいる。
「よ~い」
ボルトが下半身に力を入れる。直後、隣のホームレスから悪臭が消え、入れ替わるように何か、言いしれぬオーラが発散されたのを、ボルトは感じた。
「自分を知ってこい」
ヤラドゥアは一瞬そう呟いて、腕を勢いよく振り下ろした。
ボルトは、それこそひったくりをやっていた頃も一度も経験したことがなかったのだが、その日、生まれて初めて他人の背中を見ながら、ゴールを切った。
ゆっくりと近づいてくるヤラドゥアに短絡的なボルトは満面の笑みで問いかける。
「走り方を教えてくれないか」
こうして、ウサイン・ボルトは世界の王者への一歩を踏み出したのである。
みたいな作り話を、先日僕は妹とダラダラ喋っていた。
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「誰か! アイツを捕まえて! ひったくりよ!」
往来をしていた地元住民のアデジニ(32歳)がその声を聴いた時、彼のすぐ脇を風のように何かが走り去っていく。アデジニは咄嗟に踵を返して、今自分とすれ違っていった者を追おうとしたのだけれど、直後に自分の目を疑って立ちすくんだ。既に男の姿はアデジニの視界のどこにもなかったのである。アデジニの歩いてきた道は、真っ直ぐに長く、視界を遮るようなものは何もないのに、老婆の鞄をひったくった者の姿は、アデジニの世界から完全に消えていた。
「あのババア、全然カネ持ってねぇじゃねぇか」
ベンチに腰かけた男は、その長い腕をしなやかに振って、先ほどひったくってきたばかりの鞄を空き地に放り投げた。朽ちかけたベンチが一度軋んだ。
「腹減ったなぁ…」
男は空を見上げる。高い建物なんて一つもないスラム街。視界を遮るものは何もなく、空は円形に、青く広がっている。晴天に抱えられながら、それでも男は、蒼天の詩的な美しさに感動することなど全くなく、自身の空腹をどうやり過ごすかについて、思い巡らせていた。最も、多岐に渡って思いを巡らせられるほど、彼は理知的な男ではない。男は実に短絡的に「さて、もう一度ひったくるか」という結論に達し、次の獲物を探すべく、軋むベンチから腰を上げた。
「今、君は楽しいのかい?」
ふいに声がした。視線を向けると、錆びきったフェンスにもたれかかるように、見知らぬ中年の男が立っていた。一瞬、自分ではない誰かに声をかけたのかと思ったが、フェンスにもたれた中年男が、先ほど彼が放り投げた鞄を弄んでいるのを見て、その可能性を消した。
「なんだ?」
彼は、理知的ではなかったので、短絡的に下半身に力を込め、身体的にはいつでも逃走できる準備を調えていた。中年の男は、まるで彼の下半身に漲るエネルギーの流れを観察するかのように一度視線をずらしたあと、彼の目を真正面から見つめて、「大金持ちにならないか?」と言った。
その言葉は、まるで当たり前のように、そう、この国で「今日はとても暑いですね?」と言うのと同じくらい自然に、中年の男の口からこぼれ落ちたので、彼の頭の中では、意味を結ばなかった。
「君は大金持ちになりたくないのか?」
中年男は、もう一度同じ意味の言葉を、今度は疑問文にして投げかけてきた。
短絡的な彼は、「なりたいよ」と答えた。中年男は、安堵の表情を浮かべ、「それでいい、さぁ、大金持ちになろう」と言って近づいてきた。敵意は感じられなかった、ように思う。少なくとも、気付けば中年男は、彼の目の前に立ち、彼に手を差し伸べて「名前は?」と尋ねていた。
彼は、まるで阿呆のように、警戒することも忘れて、なんとなくその手を握り替えし、なんとなく名乗った。
「ウサイン・ボルトだ」
【数ヶ月後】
スカウトのヤラドゥア(42歳)によって見出され、陸上競技を始めたボルトは、地元大会を次々と制覇していった。
他のアスリート達は、ボルトの足元にも及ばなかった。人生のすべてを懸けて大会に挑んでくる選手達は、塵芥のようにボルトの前に蹴散らされ、消えていく。どれだけ練習を積んだ選手も、ボルトには敵わなかった。
もちろんボルトはタイムレコードにおいても、他の選手を圧倒していたけれど、他の選手が彼を前に戦意という戦意を全て失っていった理由は他にあった。
ボルトは、およそ練習という練習をしたことがなかったのである。
全く練習をせずに、昼前にベッドから起きてきて、そのまま会場に向かい、適当な柔軟運動をしただけでスタートポジションに入る。そしてそのまま、圧勝するのがボルト流だったのである。
「あぁ…ねむい」
道を歩きながら、ボルトは賞状を破り捨てて盾を放り投げた。
「こんなにも簡単にカネが稼げるとはね…で、ヤラドゥア。オレはいつになったら国際大会に出られるんだい?」
道ばたにガムを吐き捨ててから、隣を歩くヤラドゥアの顔を見る。大会キラーとなって小金を持つようになったボルトは、国内大会に飽きたらず、世界大会に出たいと何度も催促していたし、世界大会に出たとしても、同様に圧勝できる自信を持っていたにも関わらず、ヤラドゥアが一向に国際大会に出させてくれないことにいい加減ヤキモキしていた。
「あんただって分け前をハネられるんだ。さっさと世界の大会に出ようぜ」
大きめのジェスチャーで揚々と喋るボルトの顔を、ヤラドゥアは一度だけ見て、そして小さく笑った。
「あぁ、いいぜ、国際大会に出よう」
意外にもあっさりと許諾されたボルトは、なんとなく「いぇい」と呟いて、そのまま歩こうとした。しかしヤラドゥアの足は突然止まっていた。通りの途中。脇にはホームレスが寝転がっているような、どうにも中途半端な場所で、ヤラドゥアは足を止めた。
「その前に、条件がある」
「なんだ?」
「練習をしろ、ボルト」
ヤラドゥアはその、憎たらしい顔面に、憎たらしい笑顔を浮かべながらボルトに言った。練習をしろ、ヤラドゥアがボルトに何度も言ってきたことで、ボルトが何度も拒んできたことである。
「肩の凝る話は止めようぜ、ヤラドゥア。練習なんかしなくても、勝ってるじゃないか」
ボルトはいつものように、いつもの台詞を返す。退屈なやりとりは好きじゃなかったし、こんな中途半端な場所でする会話でもない。晴天の往来を歩く時の話題は冗談であればあるだけ良いし、夢があればあるだけ良い。
「あぁ、お前は確かに速い。でも、今のままでは世界大会じゃぁ勝てねぇ」
「ふんっ、ウソつけよ。アンタだってわかってんだろ、オレが神にギフトを与えられたランナーだってことをさ」
「あぁわかってる。でも神はな、増長する子羊を嫌うんだ」
「増長? 難しい言葉を使うなよ。勝ってるんだからややこしいことを言うなよ。オレの気分を害して、オレが走らないと言ったら、困るのはアンタだろう?」
ボルトは伝家の宝刀を抜いた気持ちになっていた。
ボルトが勝つことで、ヤラドゥアが儲かっている。ヤラドゥアはボルトを飼っているつもりかも知れないけれど、飼われているのはヤラドゥアの方だとボルトはいつも感じていた。それを今、口にしてやった。
「お前が走らなければ、コイツを走らせるさ」
不敵に笑うヤラドゥアの脇で、寝転がっていたホームレスがゆっくりと起き上がる。ヤラドゥアはポケットから取りだしたしわくちゃの紙幣を塊をホームレスに渡す。その額は、ホームレスが1ヶ月は過ごしていけるくらいの金額であると、ボルトは一瞬でわかった。
「なんだ、それ」
立ち上がったホームレスがボルトを見る。死んだような目で、ボルトを見ているのか、ボルトの方を見ているのかも分からない。精気は感じられなかった。
「ボルト、コイツと今、勝負しろ」
ホームレスは、ヤラドゥアの言葉を聞き終える前に、応対のど真ん中でクラウチングスタートのポーズをとった。
「コイツと勝負して勝ったら、明日にでも国を出てやる。その代わり、お前が負けたら、明日から1年間、オレの奴隷になってもらう、どうだ?」
ヤラドゥアに一瞥をくれて、視線をホームレスに戻す。
死んでるんじゃないか、そう思うほど、クラウチングスタートの格好をしたホームレスは動かなかった。その姿は滑稽で、哀れであった。
「わーったよ、やるよ。約束は守れよ」
ボルトはそう言いながら、いつも通り適当な柔軟運動をしながら、道の真ん中にまで進んでいき、ホームレスの隣でスタートのポーズを取った。饐えた匂いがした。つい先日まで、自分も同様の匂いを発していたかと思うと二種類の吐き気を催した。
「On Your Mark...(位置について)」
脇に立ったヤラドゥアが右手を挙げる。指先には煙草を挟んでいる。
「よ~い」
ボルトが下半身に力を入れる。直後、隣のホームレスから悪臭が消え、入れ替わるように何か、言いしれぬオーラが発散されたのを、ボルトは感じた。
「自分を知ってこい」
ヤラドゥアは一瞬そう呟いて、腕を勢いよく振り下ろした。
ボルトは、それこそひったくりをやっていた頃も一度も経験したことがなかったのだが、その日、生まれて初めて他人の背中を見ながら、ゴールを切った。
ゆっくりと近づいてくるヤラドゥアに短絡的なボルトは満面の笑みで問いかける。
「走り方を教えてくれないか」
こうして、ウサイン・ボルトは世界の王者への一歩を踏み出したのである。
みたいな作り話を、先日僕は妹とダラダラ喋っていた。
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