『100万本のサヨナラ草』

コーヒーに落としたミルクのように、まとまっていたはずの真っ白な意識は暗い闇の向こうに徐々にトロトロと溶け出していく。 ベッドサイドに集まってくれた人たちの声が少しずつ聞こえなくなっていく。

いよいよ死んでしまうということらしい。

身体中を好き放題に蝕んでいた病魔に与えられ続けた痛みも、いつの間にか消え去っている。
全ての感覚がひとつひとつなくなっていくのがわかる。

人生の幕は、ひどくゆっくりと下りていくらしく、それはとても苦しいものだった。
僕は精一杯、最期の一言を呟く。


「まだ・・・死にたくない」




言葉とは裏腹に、意識は身体を離れて浮かび上がっていく。
どんどん高く、空よりも、宇宙よりも遠い場所に運ばれていく内に、世界が真っ白に変わっていく。空の全てが真っ白になると、今度はは少しずつ降下し始める。いつの間にか、足元に深緑の草原が広がっている。

目の前に広がる一面の草原。そこに頭から白い布を被った老婆がたっていて、僕を待っていたかのように軽く手を挙げる。
僕は地面にゆっくりと降り立つ。

老婆は僕を待っていたかのように、「人生を、ご苦労様でございました」と頭を下げた。しゃがれた声で頭を下げながら、老婆は「冥界水先案内人のトロゾです」と付け加える。

「死に先立って、あなたにはここでやっていただくことがあります」
「ちょ、ちょっと待って下さい。僕は死んだのですか?」

僕はトロゾの言葉を制して、一番の不安を口にする。

「まだですが、すぐに完全に死にます」
「いや、まだ死にたくないんですけど」
「無理です」

トロゾは言葉で僕を打ち砕く。

「あなたには、ここでやっていただくことがあります。それをして初めてあなたは完全に死にます」
「いや、だから死にたくないんです」

聞く耳を持たないトロゾに苛立ちながら、熱くなって抵抗する。

「何をするか知りませんが、それで死んでしまうなら僕はやりませんよ」
「もちろん、それも可能です。その代わり、身近な人にここへ来てもらうことになります。
 長年寄り添い合った夫婦で、片方が死ぬと、後を追うようにもう片方も死んでしまうことがありますよね?
 あれは先に死んだ方がここでの作業を拒むからなのです。
 それでもいいですか? 作業をしないとしても、あなたはもう生き返ることは出来ません。
 作業をすれば死人は1人、しなければ2人になるだけです」

言い慣れた様子で、トロゾは事務的に残酷なことを述べる。
僕だけが死ぬか、僕が道連れを呼ぶか。




家族、恋人、仲間たちの顔をひとりひとり思い浮かべていく。
みんながみんな、最高の人たちだった、と今はそう思う。もちろん喧嘩もしたし、腹が立つようなこともあった、でも今となっては、そんな一人一人も最高の人たちだったと思う。そして、彼らや彼女らにも、それぞれに大切な人がいて、毎日を大切な人達の中で生きている。


生きている内は気づかないかもしれない。

死んでしまって初めて気づくこと。
僕たちはどれだけ幸せだったか。




つまり、当たり前のことではあるけれど、僕のせいで、誰かの幸せを奪うわけにはいかない。
僕は拳を強く握りしめて、問いかける。

「何をすればいい?」

トロゾは右手で草原一帯を示す。
よく見ると、どこまでも広がる草原を作り出している草には、小さな蒼い花がついていた。

「これはサヨナラ草です。あなたには、今からここで100万本のサヨナラ草を摘んでもらいます。それだけです。」


「抜く?」
「はい、では始めて下さい」

しゃがれた声にせき立てられて、僕はとりあえず足元の草を1本引き抜いた。
その瞬間、頭の中に小さな隙間が出来たような、奇妙な感覚を覚えた。

「なんだ、これ……」
「サヨナラ草は思い出の数。1本抜けば、1枚の景色、2本抜けば、2人の顔、3本抜けば、3つの思い出、そのそれぞれとさようなら。全部を抜いて、全部を忘れ、あなたは小さな空になる」

トロゾが歌いながら踊り始める。
しばらく手の中をサヨナラ草を見つめる。


(作業をすれば死人は1人、しなければ、2人になるだけ)


視界がにじむ。
暖かい風が吹く、腹が立つほど心地よい草原。
暖かい風が吹く、涙が出るほど心地よい思い出。

僕は草原にしゃがみ込んで、黙々とサヨナラ草を摘んでいく。
大切な思い出を、次々と失いながら。



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