『早凪荘のやり方で』

小学生の頃の僕。

みんなで一斉に逆上がりをする。

僕だけできなかった。

プールサイドでみんなが笑っている。

プールの底のタイル。

僕だけ拾えなかった。


中学生の頃の僕。

あてられた問題がわからなかった。

みんなが笑っているような気がして、耳が熱くなるのを感じた。


高校生の頃の僕。

好きな人ができた。

告白なんてできなかった。
自分には届かない世界だった。


僕はそうやって少しずつ自分の高さ、あるいは低さを常に意識してきた。
僕は人よりもできない。いつも少しだけ、人よりもできない。

そうやっていつも暮らしていた…。



そのまま吸い上げられるようにして、僕は空に舞い上がり、弾けるように姿を消した。


これは夢。
だけど真実の話。



『早凪荘のやり方で』



《その1》

ゆっくりと目を開くと、ボロボロの天井が見えてきた。とんでもなく年季の入った天井。
寝返りを打つと目と鼻の先に玄関が見える。このご時世に南京錠。それも錆びきっていて今は取っ手代わりに使っている。

ここは神戸の山奥にあるボロボロのアパート。
名前は早凪荘(さなぎそう)。


嫌な夢を見たときの目覚めほど、意外によかったりする。
たぶん、さっきまでの夢から逃げたい自分が、バイクのエンジンを思い切り吹かすように、脳みそをフル回転させるんだろうと思う。

僕は寝床から出ると、そのまま玄関を出た。

風呂なしトイレなし、洗面所なし。部屋を出て住民共同の洗面所へ向かうと、隣室の草薙三太郎が豪快に顔を洗っていた。

「春眠は暁を覚えずと言うけども、秋かて眠たいというのは、これいかにぃ~」

「バイト帰り?」

僕の声に気づいた三太郎は顔をびしょ濡れにしたままこっちを向いた。
汚れたタンクトップとチノパン、首から提げたタオル、似合いすぎるほど似合っている。恵まれた体、身長は180を軽く超えているし、筋肉隆々である。

「おう出雲(いずも)! 今日はめっさ疲れたで。なんせ5時起きで最後まで休憩なしやで。ありゃオーナーの頭がおかしいな、うん、間違いない」

そう言うと三太郎は両手を腰に当てて豪快に笑い始める。まだ顔を拭かないらしい。あるいは忘れているのか。

「出雲は寝起きか?」

ズバリ言い当てられて後ろめたい気持ちになる。
なにせ友人が5時起きで休まず働いていたのに、こっちは特にやる事もなく昼までダラダラ寝ていたのだから。

「なんでわかるんだよ?」
「声も枯れとるし、顔に畳の痕が、ほれ、バチコーンついとるからなぁ」

そういって、三太郎は太い指で僕の頬を強引になぞった。

草薙三太郎、恵まれた体、豪快な外見と裏腹に鋭い観察眼と気持ち悪いほどの気遣いを持ち合わせた妙な男である。

「三太郎はホント、エラいね、ほとんど毎日バイトしてて」

僕は隣の水道で顔を洗う。

「金ないもん、しゃーないわ」

顔を洗い終わってすぐ、タオルを持って出てこなかったことに気づく、気づいた瞬間、向かいからタオルが飛んでくる。

「寝ぼけてんな」

このように、気味が悪いくらいに気遣いができる男だ。
その時、共同洗面所の向こうから、耳に突き刺さるようなかん高い声が聞こえてきた。

「おぉ、張り切っとるなぁ」

三太郎と僕は、共同洗面所の向こうに広がるグラウンドを見ていた。
そこでは幼稚園児達が奇声を上げながら走り回っている。

ここ、早凪荘は『私立素敵幼稚園』という幼稚園に隣接している。

素敵幼稚園の園長の佐藤さんが早凪荘の大家さんなのだ。

「運動会って、来週だっけ?」
「せやで。そろそろ佐藤さんが……」

「やぁこんにちは。2人は今晩あいてるかな?」

振り返ると、ボタンが弾け飛びそうなYシャツに蝶ネクタイ姿の丸々とした園長兼大家、佐藤さんがえびす顔で立っていた。

「こんちわ、今晩ですか? オレら、大丈夫ですよ。」
「なんで『オレら』なんだよ」と抵抗しようとしたけれど、やめておいた。なぜなら今夜僕は、思い切りあいているから。

「じゃあ夜7時、運動会の打ち合わせをしようね」

そう言うと、佐藤さんは美しい「まわれ右」を披露して、立ち去った。


◇──◇ 


「じゅもり~ん!! ぐぁっ!」

激しく開かれたドアは、その勢いのまま閉まった。
ドアが開いてすぐに閉まるまでの一瞬、ドアの向こうにゴシックロリータの衣装を纏った女の姿が見えた。

枇杷(びわ)である。

「もっとそっと開けてくださいよ」

僕はドアを開けて、恥ずかしさのあまり赤面して俯いている枇杷を中に招き入れる。
寝転んでスルメをかじっていた三太郎が笑っている。
枇杷は三太郎を睨み付けると、適当な場所を選んでそのままぺたんと座り込んだ。

午後8時、全員が揃う。
約束は7時だったはずだけど。

「運動会が間近です」

ビールの缶を上品に両手で持ちながら、7時からずっと僕の部屋にいて、正座のままビールを飲み続けていた佐藤さんが、当然のような顔で口火を切る。

「役割を発表します」

早凪荘の家賃が9,800円と格安なのは、築60年という理由だけではなく、住民は幼稚園の雑用を手伝うという条件も付いているからだった。

佐藤さんは、きれいに折りたたまれた紙を開くと、僕と三太郎と枇杷の役割と詳細を滑らかに説明していった。

「ということで、草薙くん、三宮くん、よろしくお願いします」

佐藤さんは頭を下げると、そのまま部屋を出て行った。時刻は8時半。
佐藤さんは一方的に仕事を告げて去っていった。

「あのさ」

僕は「あれだけのことなのに、わざわざ僕の部屋に集まる意味ってあるのかな?」と、幼稚園で行事が開かれる度にこの部屋で会議が行われる不思議さを訴えかけてみる。

「園長がお酒飲みたいからでしょ」

枇杷が当然のように言う。

「保育士さんの飲み会ってないんですか?」
「あるっちゃあるけど、やっぱ早凪荘は落ち着くんだよ」

枇杷、早凪荘の住人であり、私立素敵幼稚園の保育士。
それも、他の保育士及びご父兄から絶大な信頼を得ている敏腕保育士。

ただ、この会議が1時間も遅れたのは枇杷の遅刻が原因であって、ではなぜ枇杷が遅れたのかというと、彼女は仕事が終わってから階下の僕の部屋に来る直前までの3時間、洋服を選んでいたのである。プライベートでは絶対ゴスロリ。それが彼女のこだわり。

僕も三太郎も、佐藤さんも他の保育士の皆さんも父兄の皆さんも、園児達も、当然のように彼女を「枇杷」と呼ぶ。佐藤さん以外は彼女の本名を知らない。とにかく不思議な存在、それが枇杷である。

「よっしゃー! バイト行ってくるかぁ!」

いきなり三太郎が立ち上がる。

「え? 今日もバイトなの?」
「せや。オレの辞書にはバイトの文字しかない」
「それはまた生きて行きにくそうだねぇ~、さんちゃん。でも、酒呑んでバイトなんてできるの?」

枇杷からの当然の質問に三太郎がニヤリと笑う。

「今夜はな、酒を飲んでないとできない仕事なんよ、枇杷っち」

世の中にそんな仕事があるのか?という僕の問いは無視されて、三太郎は颯爽と僕の部屋を飛び出していった。勢いよく開いて、勢いよく閉じたドアは、そのあと2回、勢いよく開いて、閉じてを繰り返して、中途半端に開いた状態で止まった。

「僕の辞書には『ドアは大事に』を入れときますよ」

嫌味交じりに枇杷に声をかけるけれど、枇杷は既にテレビをつけて、ケタケタと笑っていて聞いていない。佐藤さんだって、言うことだけ言って出て行ったし、どこかに僕の話を聴いてくれる人はいないのか?


翌朝。

「よーい、ピーッ!」

今日も園児達は奇声を上げながら走り回っている。

「オレさぁ、運動会とか、体育会とかの入場行進の練習が嫌いでよ」

というような事を、たぶん三太郎は言ったのだろう。
なに、歯を磨きながら話してくるので、ほぼ聞き取れなかった。

「で? 入場行進が?」
「おう、嫌いやったんよ、なんかアホくさいやろ、みんなで足並み揃えて『サル・ゴリラ・チンパンジー』つって」
「それ替え歌だろ」
「んで、親父に言ったんよ。入場行進がイヤやって、そしたら親父、こっそり放送室に忍び込んで、BGMをGREEN DAYの『Minority』に変えよってん。まぁ、あれもちょっと行進曲ぽいっちゃ、ぽいけどなぁ…」

僕は唖然とした。

「三太郎のお父さんって…」
「むちゃくちゃやな。あれには一生かかっても勝てん」

草薙三太郎が勝てないと即答する草薙父って、一体どんな人間なんだ?

「おい出雲、アイツ見てみろよ、ものごっつ足遅いぞ」

三太郎がグラウンドを見ながら指をさす。
一目でわかった。一人だけ、明らかに後れをとっている男の子がいた。

「健太だよーん」

枇杷がマグカップを片手に立っていた。
ちなみにマグカップの中身のコーヒーは僕の部屋のものである。彼女はいつも僕の部屋で勝手にコーヒーを淹れる。

「健太くんは足が遅いなぁ、大丈夫かよ、運動会は」

三太郎が顔を拭きながら共同洗面所とグラウンドの間のフェンスにもたれかかる。

「そうなのねー」
「なんとかしてあげないんですか?」
「あたし達がどんだけ話し合ったって、健太の足が速くなるわけじゃないじゃん」

枇杷は立ったまま、コーヒーが冷めるのを待っている。

「でも、なんか可哀想ですよ。みんなの前で恥ずかしい想いさせるのなんて」
「そうか? んなもん、一瞬やろ。人の噂も十月十日とか言うやないか」
「長すぎるよ」

三太郎は豪快に屈伸運動と伸脚運動をするとゆっくりと立ち上がった。

「さ、ジョギングすっか」
「なぁ、三太郎」

柔軟体操を続ける三太郎に話しかける。

「お前は運動会でビリになった経験、ある?」
「あるか。いっつも一位じゃい」

即答した三太郎はそのまま飛び出していった。


大きな溜息をついていると、枇杷が「じゅもりんどした? 生理痛か?」と訊いてきたけれど、僕はそれを聞き流した。

「健太のことが心配なーのねー?」
「心配ってほどのことじゃないですけどね。ところで枇杷さんってどんな子供時代だったんですか?」

枇杷は一度マグカップに口を付けたが、まだ熱いようで眉間に皺を寄せると、すぐに口を離した。

「えー、ぜーんぜん普通」
「普通って、例えば足が遅かったとか、恥ずかしい想いした経験は?」
「おうおう、じゅもりん、いきなりサドに目覚めたかー? びっくりだー!」

目を見開きながら僕の顔を覗き込む枇杷をかわしながら「そんなんじゃないですよ」と答える。

「あたしは見ての通り文武両道よ、高校時代はバスケ部のキャプテンで全国大会まで行ったんだぜベイベー」

思わず「えっ!」と声が出た。なにせ枇杷はとても小柄だ。女性の平均身長より遥かに小さい。バスケ部なんて、それも全国大会だなんて、それもキャプテンだったなんて……。


枇杷は冷めないコーヒーに苛立った様子で、そのまま階段を上がり自分の部屋に帰って行った。
部屋に戻って寝転ぶ。染みだらけの天井を見つめながら、ぼんやりと考える。


健太が、心配だった。


一昨日の夜に見た夢を思い出す。
僕は小さな頃から何もかもが苦手だった。大人のえらい人は僕の苦手な物ばっかり選んで学校でやらせてるんじゃないかと思うくらい全てがことごとく苦手だった。

必然的に何もできなかった。激しく劣っていたわけではなかったけれど、決して勝ってはいなかった。いつだってどこにいたって、いつも誰かに負けていた。

僕は目立たなかった。同級生に「三宮出雲」と名乗っても覚えている人間の方が少ないだろう。僕はそういう人生を生きてきた。

三太郎も、枇杷も、僕とは真逆の世界を生きてきた人間、言わば“勝ち組”だ。
負け続けて生きてきた人間の気持ちはわからないだろう。


僕は、健太が心配だった。


◇──◇ 


次の日もフェンスの向こうでは園児達がかけっこの練習をしていた。全員同じ服装だけど、健太はすぐにわかる。明らかに走るのが遅い。

「おはようさん」

三太郎が歩いてくる。僕はなんだか三太郎と話したくなくて視線をグラウンドに戻す。

「なんやねん、愛想ないなぁ。お? 健太、今日も全然アカンなぁ」

その言葉に胸の奥がざわついたけれど、それを表に出さないようにフェンスを強く握った。

「お、こけよったぞ。豪快やなぁ!」
「そういう言い方やめろよ!」

気づけば僕は三太郎に詰め寄っていた。

「なにをイライラしとんねん、生理痛か?」
「朝からうるさいよ。さっさとバイト行けよ」

でも三太郎は全く表情を変えなかった。

「ご機嫌斜めのようで、それでは失礼いたしまーす」

踵を返す三太郎の背中に、まだ溢れてくる苛立ちをぶちまける。

「お前に僕や健太の気持ちはわからないよ」
「ほな、お前にはわかるんかい」

僕に背中を見せたまま、三太郎は低い声で言った。

「お前よりはな」

なぜか小さな恐怖を感じながらも、僕はそう言い返した。


着替えるとすぐ、僕は素敵幼稚園に向かった。今日は園長室の模様替えの手伝いが入っていたのである。佐藤さんの指示に従って、園長室に溢れかえるわけのわからないガラクタを移動させながら、僕は佐藤さんにずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。

「なんで運動会なんてやるんですかね?」
「別に意味なんて、なんでもいいでしょ?」

まぁそう言われてしまえばそうなんだけども……

「なんだっていいんですよ。ただ、行事を行うことで園児や親同士が仲良くなれればいいんです。それがたまたま運動会なんでしょう。元気良く走り回る子供を見れば、親も喜ぶ」
「でも、例えば足が遅い子とかは、恥をかくことになりません?」
「そんなの、一時のものですよ。人の噂も四十五日って言うでしょ?」

今度は短すぎる。

「根強く残るかもしれませんよ。その子がかけっこが苦手になったらどうするんです?」

僕の問いに佐藤さんは不思議そうに答えた。

「かけっこが苦手でも別にいいじゃないですか」

ふいに大学の友達の話を思い出した。

「彼女の浮気を知ってさ、それだけでショックやのに、翌日彼女の浮気現場まで目撃してもた。知りたくない事とか見たくない事って、やたら目に付くんよな。神様は、きっとサディストやな」


「神様は、サドだ」

気付けば、そう呟いている自分がいた。



その日の夕方、僕は一軒の家の前に立っていた。表札には“山村”とある。門と玄関の間にある小さな庭ではお母さんが楽しそうな顔で何度も「よーいどん!」と言っている。
そしてその度に、男の子、そう、目下僕の心配の種である山村健太くんが何度もスタートを切っていた。

「今の良いやん! 良い感じ!」

お母さんは楽しそうに健太にスタートダッシュを教えている。
来るんじゃなかったと思ったその時、お母さんと目が合った。

「あ、すみません。素敵幼稚園の者です。健太くんの忘れ物を届けに……」
「あ! ありがとうございます! さっき園長先生からお電話頂きました」

お母さんは健太の手を引いて門までやってくる。
そこで僕は初めて健太と目を合わせた。


見るからに健太は大人しい子だった。俯いて、全く口を利かなかった。お母さんはとても明るい人で、余計に健太のおとなしさが目立った。「お茶でも」というお母さんのお言葉に丁重なお断りを入れて僕は帰路についた。

この世は不公平だと思った。家族でもわからないところで、たくさんの不公平がある。

幼稚園も学校も、できない生徒を探す場所だった。できる人は勝手に上に登っていってくれたらよかったのに、僕の子供の頃はずっとそうではなかった。できない子は探されて、見つかって、特別指導を受ける。僕はそこまでではなかったけれど、それでも気持ちはわかった。

大学に合格した時、心の底から、「これは奇跡だ」と思った。自信なんて身に付かなかった。ただ奇跡が起こっただけだと思った。中レベルの私立大学、合格しても不思議ではない成績、それでもそれが成果として現れた時、僕は奇跡が起こったとしか思えなかった。

反面、それを当たり前に思って生きている人もいる。
世の中、本当に不公平だ。


翌朝、洗面所に行くと三太郎がフェンス越しにグラウンドを見ていた。

「おは……」

そこまで言って僕の言葉は止まった。三太郎の手にタイムウォッチが握られているのを見つけたからだ。

「なにやってんだよ」
「健太のタイム測ってんねん。なんやねん、お前。今日も機嫌悪いなぁ」

三太郎は理解不能といった感じで首を傾げた。

「そこまで悪趣味だとは思わなかった」
「何を言うてんねん」
「もういいよ」

僕は顔も洗わず部屋に戻り、そのまま布団に潜った。ふて寝、健太の事でここまで熱くなっている自分が情けなくなる。それにしても三太郎はやりすぎだ。健太のタイムを測るなんてひどすぎる。測ったものをどうするつもりか知らないけれど、測る行為自体が許せなかった。

枇杷も三太郎も何もわかってない。天井を見上げると、早凪荘の古い天井が広がっている。

「僕にここは合わないのかも知れない」

そんな想いがいつの間にかこみ上げてきていた。


◇──◇


いよいよ運動会前日、佐藤さんの指示で保育士さん達と共に明日の準備を整えていく。
数人の園児がまだ園内に残っていた。両親の仕事の都合で迎えが遅い子供達だ。

その中に健太がいて、僕は無意識に健太の元に向かっていた。

「こんにちは」
「こんに……」

語尾が掠れて聞こえないほど小さな声で健太は怯えた様子で僕を見上げた。

「覚えてない? この前忘れ物、持っていったんだけど……」
「知ってる」
「隣座っていいかな?」
「うん」

僕は健太の隣に腰かけた。
健太は子供の頃の僕そのものだった。怯えた目つき、自信のない声、自分の過去と向き合っているような気さえしてくる。

「明日、運動会だね?」
「うん」

健太は僕が隣に腰かけていることの方が不思議なようで、居心地悪そうにしている。
僕は思いきって健太に問いかけた。

「健太、走るのイヤなんだろ?」


健太は驚いた顔で僕を見ていた。

「お兄ちゃんもね、走るの遅かったんだよ。だから運動会が大嫌いだったんだ」

少しずつ健太の表情が和らいでいく。
僕の話のどこまでを理解したのかわからないけれど、それでも気を許してくれたのは明らかだった。

「ちょっと……イヤかも」

健太はボソッと呟いた。僕はその一言で胸が熱くなるのを感じた。

(ほら見ろ)

枇杷にも三太郎にもわからないんだ。僕らの気持ちは。

僕は健太に向き合って、思い切って素直な気持ちを伝えた。

「イヤなら、走らなくてもいいんだよ。恥ずかしい想いをする必要なんてない。お兄ちゃんはずっと負けてばっかりだったんだ。健太が僕みたいになるのはイヤなんだ。負けると、みんなに笑われてるような気がして恥ずかしい。イヤなら、走らなくてもいいんだよ」


「あんた、何言ってんの」


顔を上げると、そこには険しい顔の枇杷が腕を組んで立っていた。


「び、枇杷さんにはわからないんですよ、負け組の気持ちは」

僕は驚きを抑えながら、吐き捨てるようにそう返す。
健太は僕が守る。健太は僕みたいな想いをして生きる子にはなって欲しくない。

「あんた、間違ってる」
「どこがですか!」

いよいよ頭に来た。全国大会で華々しく活躍して、今もカリスマ保育士とまで呼ばれてる枇杷に僕の、僕らの何がわかる。
すると枇杷はそのまま僕に近づいてきて、目と鼻の先で聞いたこともないような低い声で話し始めた。

「あんたはこの子に、負けることさえも経験させてあげないわけ? あんたは少なくとも負けた。負ける事ができた。なのにこの子には勝負にも参加させてあげないわけ?」
「そんなの、負けた事のない人の詭弁だ。そもそもかけっこなんてやってもやらなくても良い事でしょ」
「だーかーらー、何であんたにそれを決められるのよ!」

「おい、もうええやろ」

三太郎だった。長机を両手に1つずつ、軽々と抱えている。

「うるさい、お前には関係ない」
「出雲はホンマ、頭に血が上ると手に負えんな」

長机をその場において、手をヒラヒラさせながら首を傾げる。そのいちいちに腹が立つ。
僕はいよいよ立ち上がり、枇杷を押しのけて三太郎に詰め寄ろうとしたその時、突然口を開いたのは健太だった。


「僕……勝ちたい」


胸が握りしめられるような感覚を覚えた。

「せやんなぁ、健太。さっきから『負ける、負ける』て、人聞きの悪いことばっか言いやがってなぁ、こいつらの阿呆さについては本当に腹立ちますよなぁ、のけ阿呆が」

三太郎はニヤニヤしながら僕を押しのけて健太の頭をクシャクシャに撫でる。

「お二人とも、健太は勝つ言うとんねん、それでええやろ」
「でもさっきは出たくな……」
「さっきのことはええねん。今『勝ちたい』言うたやないかっ!」

三太郎が大声で僕の言葉を遮った。

「よっしゃ、健太、明日は勝とうぜー。ということで、オレにひとついい作戦がある。乗るか?」

健太の隣に腰かけて、俯く健太を覗き込むようにした三太郎は、右の眉毛を持ち上げて、意味ありげに笑う。そんな三太郎に怯えるようにしながらも、健太はしっかりと頷いた。

「オッケーオッケー。ええか健太、お前は自分の目の前を人が走ってるのに慣れすぎてる。だから、本番はもう、あれや。目ぇつぶって全力で走れ。オレが大声で呼んだるから、なーんにも考えずにオレの声に向かって全力で走ってこい。絶対に力抜くな。ええか?」

健太は弱々しく頷いた。


僕は、その場から、逃げた。


◇───◇


「よーい、ピィー!」

園児達が次々と走ってくる。
僕と三太郎はゴールテープ係をやっていた。一位の園児がゴールを切ると同時にテープを離す。一位になった経験がない僕は手を離すタイミングがわからず、三太郎がそれをやることになった。

少しずつ、でも確実に健太の順番が近づいてくる。

「三太郎」
「おぉ?」
「健太は本当に勝てると思う?」
「まぁ…、厳しいやろなぁ」

次々と園児がゴールしてくる。

「じゃあ気軽に『勝とう』とか言うなよな」
「お前も気軽に『負ける』とか言うなよな」

三太郎と目が合う。
ニヤニヤと笑っている。胸の奥がざらついた。

そしてスタートラインに健太を含む4人が並ぶ。
健太は緊張しているのか、ソワソワと落ち着きなく。キョロキョロとまわりを見ている。

「お、真打ち登場や」

その言葉でまた胸がざらついた。
健太の視線が止まった。視線の先には、観覧席で、健太の母親が手を振りかざして笑顔でなにか叫んで盛り上がっている。

なんなんだよ、どいつも、こいつも。

「よーい、ピィー!」

簡単に、健太のグループにも合図が送られた。

家でのスタートダッシュの成果が出たのか、健太は良い感じにスタートを切っていた。どこかで「カチッ」という音がした。
そして健太は…、健太は三太郎に言われたとおり、目をギュッと閉じていた。

その時、周囲の騒がしさやBGM、歓声や歓談、その全てを一撃でぶち破るような「音」がグラウンドに響いた、いや、爆発した。


「健太っ! こっちやっ!」


信じられないほどの大声で三太郎が健太を呼んだのである。額に血管と汗を浮かび上がらせ、自分に出せる最大の大声を出して、三太郎は何度も健太を呼んでいた。そして健太は三太郎に言われたとおり、目を閉じて力一杯三太郎の方に走ってくる。



でも、やっぱりそれはとても遅かった。



他の三人からみるみる離されていく健太は滑稽なほどに遅かった。でも三太郎は健太を呼び続けている。目を閉じている健太は自分が遅れていることに気付かず、言われたとおり全力疾走を続けている。僕はもう、この場から消えてしまいたくなった。

そして先に他の3人がほぼ同時にゴールをくぐる、健太はまだまだ着かない。

三太郎が真剣な表情のまま、大声で健太を呼びながら僕の方に歩いてきて、僕の足元に落ちたゴールテープを拾い、もう一度テープを張った。僕はもう見ていられなくなって、自分の足元を見ていた。しかし三太郎は何度も何度も健太を呼んでいる。声が掠れ始めながらも、何度も何度も何度も何度も、三太郎は健太を呼んだ。

俯いていたせいで、この目で見ることは出来なかったが、ゴールテープをもつ手の感触を通じてわかった。


目を閉じて走ってきた健太は、約束通り速度を決して落とすことなく、そのままの勢いでゴールテープを切ったのである。

(終わった)

僕は何か体から抜け落ちたような感覚を覚えながら、顔を上げた、のだけれど、そこに健太はいなかった。


目を閉じた健太はまだ走り続けていたのである。
ゴールしたことに気づいていないのだ。



「健太!」



僕が慌てて声をかけたのと同時だった。
盲進する健太の進行方向に、いつの間にか枇杷が回り込んでいたのである。
そして枇杷は、全力で走る健太を、その小さな体いっぱいで抱き止め、そのままいっしょにグラウンドに倒れ込んだ。


「頑張ったねぇ、健太」


倒れたまま、枇杷は涙ぐみながら健太の頭を撫でた。
そこに三太郎が近づいていく。僕はそのあとを無意識に追っていた。

「見てみ」

三太郎はタイムウォッチを健太に見せた。

「あ!」

三太郎が僕を見てニヤリと笑う。

「お前のタイムをな、練習の時からずっと測ってたんやけど、お前、今日が一番速かったぞ。やったな!」

その言葉に健太は照れ笑いを浮かべて俯いて、もじもじして、三太郎に頭をクシャクシャにされた。
ふと気になって観客席を振り返ってみると、健太のお母さんは周りを気にすることなく相変わらず手を振りあげて何か叫んでいる。しかし、その目に涙が浮かんでいることが、ここからでもよくわかった。


「三宮くん」

その後もゴールテープ係を続けていると、佐藤さんが声をかけてきた。

「幼稚園も学校も、わかりやすい長所が目立つ所ですが、誰にでもわかりにくい長所がある。健太くんはね、実は掃除をとても一生懸命する子なんです。君にもきっとわかりにくい長所が山のようにある」

「それ、誉め言葉ですか?」

さぁ、と笑って佐藤さんは立ち去っていく。園児達はまだ走ってくる。
僕は少し軽くなって、ゴールテープ係を続けた。



そうそう、これは別にどうでもいい話だけど、このあと開催された、草薙三太郎 vs 20人の園児の綱引き大会で、思いっきりこけて負けた三太郎が、必死で『泣きのもう一勝負』を懇願していた。


なんだよ、あいつ、負けたこともあるんじゃないか。


その20人の園児達の中で、健太は楽しそうにはしゃいでいた。

(完)



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