風を見るということ。

風は目に見えない。
けれど、木々が揺れることで、前髪が視界を横切ることで、耳が拾う音で、今ここに風が吹いていることはハッキリわかる。

目に見えないものであっても、それ以外の、目に見えるものがその影響を受けて変化する、その様子を見れば、そこに確かに存在することはわかるんだ。

揺れる木々を見ること、視界を横切る前髪を掻き分けること、音に耳を傾けること、それがつまりは、「風を見ている」という意味になるのかもしれない。


人生の流れが風に例えられるなら、それは目には見えないけれど、今の僕は、普段なら考えないようなことを考え、感じないことを感じ、しないようなことをしようとしている。目に見えないなにかの影響を受けて変化している。

そこを考えたら、今の僕の人生は、確実に流れているとわかる。
僕の人生はゆっくりと動いているとわかる。

僕の今の試練は、少しずつ少しずつ、前に進んでいるとわかる。

そして、師が云うように、「風の始まりと終わりに立つ者はいない、どこかで生まれた風が我々に向かい、我々を通りすぎてどこかへ消えていく。我々はただ、風の通る道に立つだけである」の言葉の通り、今の僕の人生の流れも、やがて僕を通りすぎていくだろう。

僕のもの、僕の人生であっても、僕に与えられた試練であっても、どこかに消えていくだろう。

僕にできることは、せいぜい視界を横切る邪魔な前髪を掻き分けたり、短く切り捨てたりすることくらいだけど、それをしてもしなくても、影響を受けて変化をし始めた今、風はそのうち僕を通りすぎていくだろう。

僕の不格好で不安定な感情や、過去への執着、傷や恨み、悲しい気持ち、全てを載せて行ってしまうだろう。

過ぎ去っていく風が、僕の足元に、落ち葉のように落としていくものは、僕に残していくものは、全てが終わったという実感と、次の風への期待感と、全ての人たちへの感謝。いずれにせよ楽しいものばかりだろう。


悲しいからつらいんだ。
つらいから試練なんだ。

そのとき僕が考え、感じ、誰かを頼り、誰かに助けてもらい、自分が動く。そうやって目に見えないものの影響を受けて変化すれば、試練は、風はそれを見届けて去っていくんだ。

だから、残るのは楽しい気持ちだけなんだと確信できる。



どん底にいたとき、友達から

「幸せなんてそこら中に平等に落ちてる。ある人にはたくさん、ある人には少なめなんてことはない。幸せなんて空気みたいにどこにでもある。でもつらい想いをしてる人は視野が狭くなってしまってそれに気付かない。気持ち次第で、花が咲いただけでも幸せを感じられる人だっている」

と言われた。

「いい言葉やね」

と言うたら

「これはあなたが私に言ってくれた言葉だ」

と言われた。


恥ずかしかった。

でも。

今、縁側で本を読んでいて、風が一枚吹いただけで、ここまでの日記を書けるようになったオレの視野は、幸せへの視野は、なかなかに広がってるような気がしないでもないぞ、今日。

本日の最終電車で帰宅する。
もうちょっといたかったけど、片付けることを片付けて、それからまたここへ来て、この縁側で本を読んでやればいいじゃないかと思う。

なるようにしかならない。
なるようにしかならないなら、さっさとなるようにしてしまおう。



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