言葉は人を救わない。

賢人達は皆、「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」と仰る。まさに慧眼、すげぇええこと言うなぁと思う。

僕には持病もあって、他人の発する言葉に対して必要以上に懐疑的であったり、深読みをしすぎる傾向があるため、「言葉」というものに対して敏感であると自負している。「自負」の使い方が間違ってるような気がするけどもね。

さて、先に書いたとおり、「言葉とは、どういうつもりで発したかではなく、どう受け取られたかである」、蓋し正論である。たとえば「あなたの言葉に勇気づけられた」と言われた場合、それは間違っている。言葉にはそんな力はない。もしもあなたが僕の言葉で勇気づけられたのだとしたら、それは僕の言葉に「力」があったのではなく、あなたに僕の言葉を「理解」し、そしてそれを「消化」し、その上で自分を奮い立たせるだけの「力」があったということでしかないのだと思う。

というのも、もし万が一、言葉そのものに力があるのだとしたら、「薬」のような効能があるのだとしたら、どんな人でも救えるような「言葉」があるはずだし、誰が口にしてもたちまちに相手を元気にさせることができるはずではないか?

しかし、実際は違う。

片想いの相手にフラれた程度の相手に「世の中そう言うこともあるよ」と言って、相手が「そうだよな」と元気になったとする。しかし、自分が末期癌であることを宣告された人に「世の中そう言うこともあるよ」と言って、相手は「そうだよな」となるだろうか? ならないだろう。前者は、まだ心に余裕があり、相手の言葉に「聞く耳」を持ち、それを「消化する力」があり、自分を奮い立たせる「力」が残っているだろうが、後者にはまず相手の言葉に「聞く耳」がないだろうし、あったとしても、「それはそうだけど…」と消化できないだろうし、そもそも「お前にオレの何がわかるんじゃ」となるだろう。

言葉とは全て、「受け取る側」のモチベーションに依拠しているのである。

それなのに、世の中には「発する側にイニシアティブがある」と信じて疑わない人がいて、そういう人たちがいるせいで、たくさんの「嫌な言葉」というのが生まれている気がする。

例えば、「オレは、お前のためを思って言っているんだよ」だとか、「心を鬼にして」だとかがそうであると思う。

「お前はオレのことを思ってくれてるのかも知れないけれど、オレにはお前にオレのことを思ってもらいたいと思わない」と思うことが多々ある。「心を鬼にして」と言われると、「なに? オレのせいでお前が苦労してるみたいな感じになってるの?」と思う。

自殺を考えている人に、「生きてればいいこともあるさ」という言葉があるが、「それはお前の主観だろう」と思う。死のうと思っている人は、そもそも「生きていても良いことはない」と判断したから自殺を考えるのである。自殺ナメんな、と思う。




「頑張れ」とか「ちゃんとせぇ」とかも随分曖昧模糊としていて好きではない。

今回のこの件について、何を、どういう風に、どうこなしていくことが『頑張る』になるのか教えて欲しいし、『ちゃんと』っていうのはいったい何をどうすることを指しているのか、そう言った説明責任を一切無視して「ちゃんとして頑張れ」と平気の平佐で言うてくる人間のいかに多いことか。


言葉は人を救わない。


その人が救われたと思ったとしても、それは、その人にまだ立ち上がれるだけの力が残っていたからである。

僕も言葉を重視する人間である。しかし僕だって、いつ何時、誰かに愛のない無責任な言葉をかけてしまうかわからない。そういうことにならないように、今から頑張って、ちゃんとしていこうと思う…


あ…。




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