11.10.2010

ポジティブシンキングについて。

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愛読している内田樹さんのブログで、内田さんが大学の入試部長をしていて、「うちの大学の合格者のうち、うちの大学にきてくれるのは何人いるか」という『残留率』を算出するに当たり、楽観主義であることについて述べていて、楽観主義であることが悲観主義であることよりいい理由について、下記の通り書いてあった。当たり前のことが、当たり前に書いてあるだけのことなのだけれど、こうも当たり前に書かれていると、「そっかぁ、そうだわなぁ」と思う。

ちなみに内田さんのブログは引用自由である。

私が好んでものごとを楽観的に見るのは、悲観的予測をするとしばしば悲観的未来を進んで呼び寄せてしまうことを経験的に学んだからである。
というのは、悲観的予測をしたあとに、そのような事態が到来しなかった場合、それは予測者の知性がかなり不調であったことを証明してしまうからである。
それゆえ、大学教員のように自分の知性が好調であることを証明することが死活的に重要である職業においては、悲観論者は(無意識的に)、悲観的事態の出来を願望するようになる。
予想とおりの危機的事態が起こり、楽観論者が備えをしていなかったせいで、右往左往している様を見て「だから、言ったじゃないか」と冷笑を浴びせる日の来ることをいつのまにか待望するようになるのである。
そして、その日の到来を前倒しにするために、わずかずつではあるが、悲観的事態そのものを自分の手で作り出すようになる。
日常的には「だから、この学校はダメなんだ」という捨て台詞を会議や打ち合わせの席で頻繁に口にするというあたりから始まり、教場で学校のシステムや同僚の無能をあげつらう、やがては近所の高校生に「女学院大学に行きたいんですけど」と訊かれたときに、反射的に「止めたほうがいいよ」と忠告するようになる。
このような人々の日常的努力のおかげで、問題の多いシステムが円滑な機能を回復するということは起こらない。働きの悪い同僚たちの士気が高まるということも起こらない。学生たちが上機嫌で勉強するようになるということも起こらない。
もちろん彼らのおかげで志願者数が増加するということも起こらない(絶対)。
だから、私は同僚たちには(多少の無理を承知で)、「楽観的に行きましょうよ」とつねづねご提案しているのである。
「まあ、なんとかなるよ」と言った手前、その未来予測の正しさを実際に「なんとかなった」ことによって証明せねばならないからである。
そのための努力を惜しむと、事後的に自分が「バカだった」ことになってしまう。

ポジティブに物事を捉えた以上、それを実現する責務を負う。
結果、ポジティブな結果を生む。

素晴らしい発想だと思った。



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