幸せであれ。

「生きていくんだよ、荒れた道に何度足をすくわれても」なんてことを言うてる奴がいて、誰やお前、お前は誰やって、考えたらオレが昔、『デラシネの唄』っつう曲で作詞した歌詞だった。ってか、かー、生意気なやっちゃで。あの時齢18。酸いも甘いも知らんくせに、いっぱしの口効いたもんだぜ。

しかし、結局幸せなんて、ゴロゴロ転がってる。例えばその昔、風流を解した人々は、お猪口に張った日本酒に満月が映り込んでいるのをみて、満月を飲み干したっつって悦んでいたとか。

雨が降る。水溜まりができる。水たまりに満月が映り込んでいる。その満月を思い切り踏みしめて、月面着陸っつって笑ってたって良い。
昨日蕾だった花が今日咲いていて、夜の間に必死こいて咲いたんだなぁっつって想像してみて、そこに幸せを感じてみてもいい。

「いや、別に用はないんやけど」っつって、愛する人から電話がかかってくることに、エレベーターでみんなが降りるまで「開」を押してたら、見ず知らずの人に「ありがとうございます」って言われることに、幸せを感じるのも良い。

子供は、おしゃぶりをくわえてるだけでも幸せだと感じているし、パパに、ママに抱っこされるだけでうれしいと思う。パパやママは、子供が少し笑っただけで、その一挙手一投足に幸せを感じる。

交差点に向かっていて、赤信号だったのが、自分が横断歩道に足を踏み入れる瞬間に青信号に変わって、一度も止まらずに3里進めて嬉しかったってのもありだろう。
まっすぐ帰りたくないなと思って、行きつけのバーに行ってみたら、昔なじみが顔を揃えていたってのも幸せだろう。

どれだけ用意周到に人生を生きてみても、思いがけないことは必ず起こる。「えー、まじでー」つって、悲しいことも起こる。そもそも、今日寝て、明日起きられるかどうかだってわからない。

ある人は言ってたよ。

「朝目覚め、これからの人生の、歴史的一回目のトイレへと」つって。

幸せを選りすぐらなければ、どんなことだって幸せになるんだろうな。

そして、願うもの、目指すもの、それがどんなものであったって、あんたにそれがある限り、あんたの人生は果てしない。

ある人は言ってたよ。

「人は、願う物がある限り、果てしない」つって。

あんたは何を願う?
自分の幸せ、親の健康、子供の健康、目標とする人、目標とする職業、目標とする年収、目標とする生活。

それがどれだけ小さな物であっても、それがどれだけ手の届かない場所にあっても、あんたが、オレが、それを目指してさえいれば、目指す物がある限り、オレたちは生きていける。オレ達は、果てしない。

ある人は言ってたよ。

「生きることを選択できる以上、死ぬことも選択できる。でも、ビルの淵に立ったときに、隣のビルまで飛び移れそうなら、一応隣のビルに飛び移ろうと、飛ぼう。それで落ちたらしゃあない」って、和田が言ってたよ。

幸せなんて、そこら中に落ちてる。それは、オレが誰かに言ったことらしい。
厭わなければ、人間はなんにだってなれる。どうにだって変われる。

年齢なんて関係ないし、境遇なんて関係ないし。

幸せになるっていうのは、そこらじゅうに落ちている幸せを『幸せ』と感じることができる状態だと思う。最近そう思う。

今、起きていることは無茶苦茶で、オレはそれのひとつひとつを本当にイヤイヤこなしていきながら、それでも生きてる。それは、結局生きていたいということで、小さな幸せを『幸せ』と認識できる日が、いつか必ずやってくると信じているからなんだと思う。

そうであれば、オレは死ぬ必要がない。

今はその時じゃないかもしれない。
でも、オレはいつか幸せになるだろう。

オレには目指す物があって、憧れる物があって、恋い焦がれる物もあって、それらは全て、今のオレよりも前にある。先にある。未来にある。

そしたら、オレはそれを追いかけていくしかないし、それを追いかけることが結局は幸せなんでしょ?

どん底を見たよ。
でもこれもどん底じゃないかもしれない。

この先、何度もどん底を見るかもしれない。
でも、花は咲く。雨上がりに雲間から満月が顔を出す日も来る。何度も来る。

友達に子供が生まれる。友達の子供に会わせてもらえる。友達の子供は、おしゃぶりで上機嫌だ。それを見つめながら麦酒を煽る。それも幸せだ。

遡って考えてみる。帰納的に考える。

オレは、こんなにも毎日がつらいのに、意外にも幸せなのかもしれない。

あんたは、どうだ?



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